<12月2日の説教から>
『皇帝に納める税金』
マルコによる福音書12章13節~17節
牧師 三輪地塩
イエスは「皇帝のものは皇帝に」と答えた。それはユダヤ人たち、特にファリサイ派の人たちにとって衝撃的な答えであった。「刻んだ像」の存在を認め、その価値を認めているかのような答えだったからである。しかしイエスの言葉には続きがある。「神のものは神に返しなさい」と。
そもそも皇帝とはどういう存在であろうか。聖書は権力者に対して中立的である。よく知られている、ローマ書13章の中で使徒パウロは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。」と語り、「権力者に従え」と述べられている。
デンマークの有名な哲学者キルケゴールは「皇帝のものは皇帝に」という言葉は、「皇帝に対して、イエスが徹底的に無関心であること示している」と言う。キルケゴールが言うのは、「キリスト者は、政治に無関心でよい」と言うことではなく、「皇帝と神を並列関係に置くこと自体がナンセンスだ」という意味である。「皇帝のものは皇帝に」、という言葉は、後半の「神のものは神に返しなさい」という言葉に全てが集約されている。「皇帝」VS「神」という構図は成り立たず、神に拮抗する巨大勢力としてのローマ皇帝など、君臨すべくもない。イエスにおいて「神のものは神に」という言葉には、全てが「神の下にある」という大前提がある。
我々は、「刻んだ像を作ってはならない」という事を知っているが、神は「ご自分の姿を我々人間の姿に刻んでいる」とも聖書は語っている。我々は「神の像」「神の似姿」。我々はすでに神の似姿であると聖書は主張する。創世記1章で「神はご自分に似せて人間を造られた」とある通り、私たちは神の尊厳が刻み込まれていると聖書は伝えている。この罪深い我々が、神の似姿として生きる事を許可されている。「神の似姿として、人間の尊厳として歩みなさい」と命じられるのである。
神の尊厳と、神に託された命を生きる事、それは決して「我々の栄光」のためではなく、神の栄光のために生きる。それが我々の生涯であり、人生である。
2019/6/30 説教音声 三輪地塩
説 教 「地上に仮住まいする身として」
聖 書 レビ記19章1節~8節
ペトロの手紙一1章13節~21節
聖 書 レビ記19章1節~8節
ペトロの手紙一1章13節~21節
2019.6.30の礼拝予定
主 日 礼 拝 午前 10:30
奏楽 加 藤 純 子
<神の招き>
招 詞 ローマの信徒への手紙12章1節
*讃 詠 (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編143編1節~6節
*讃美歌 (21)13[1-3]
<神の言葉>
聖 書 レビ記19章1節~8節 (旧約P.191)
ペトロの手紙一1章13節~21節 (新約P.428)
祈 り 増 田 裕 子
*讃美歌 (21)474
説 教 「地上に仮住まいする身として」 三 輪 地 塩
<神への応答>
*讃美歌 (21)449
*使徒信条
公 告
*献金感謝
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄 (21)46
*派遣と祝福
*後 奏
「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は
お座りのままでどうぞ。
礼拝当番(今週)三浦、薄田、菊地洋、菊池淑
(次週)安井、野田、國久、國見
掃除当番(今週)薄田、青木、志賀、越智
藤沢、加藤純
(次週)河野武郎、安井英、大嶋
菊池淑、栗原、島口
*礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください。
2019.6.30~7.6 今週の集会
今 週 の 集 会
◎祈祷題「神学生のため」
〇聖書の学びと祈りの会 4日(木)10:00
歴代誌下3章(担当 三輪地塩) 司会 増 田 裕 子
〇「生」と「死」の学び 担当 増 田 裕 子
(三浦綾子著「泉への招待」P.233~238) 同 上 後
〇聖書の学びと祈りの会 4日(木)14:00
詩編84編 担当 大 和 文 彦
【牧師予定】
〇立教大学講義 2日(火)、聖学院大学講義 3日(水)
2019.6.30のお知らせ
◇過日、住所録を配布いたしましたが、更に変更などありましたら、6月中に 書記森﨑千恵までお申出ください。
◇エレベーターのボタンについて
エレベーターに乗る際、♿(車椅子)のマーク下のボタン
を押していただくと、ドアの開閉が遅くなりますので、
ご利用下さい。(従来のボタンは塞いであります。)
【「聖書・教理の公開講座」ご案内】
①7月1日(月) 19:00~20:30 鶴見教会
新約聖書・その他の書簡と黙示録 講師:住谷眞牧師
②7月2日(火) 19:00~20:30 鶴見教会
教理・終末論 講師:澤正幸牧師
2018.11.25の説教から
<2018年11月25日の説教から>
『「ぶどう園」と「農夫」のたとえ』
マルコによる福音書12章1節~12節
牧師 三輪地塩
主イエスの譬え話。「主人はこのぶどう園を農夫たちに貸して、しばらく旅に出」て「収穫の時期になったので収穫物を受け取るために、しもべを農夫たちのところへ送った」とあるが、これは当時度々見られた光景ではある。収穫物を受け取るためにしもべを何度も送ったが、農夫たちは何度も追い返してしまうのであった。主人は、「愛する息子」を最後に送ったが、殺されたしまったという。
この譬え話しは、祭司・律法学者たちの頑なな心を暴き出そうとしている。何度も送られた「しもべ」は、この世に送られた「預言者たち」を意味している。これまで何度も旧約の預言者が神の言葉を伝えてきたが、人々はそれらをことごとく拒否し続けてきた。
しかし主人は意外な行動に出る。「この息子なら敬ってくれるだろう」と言って、愛する息子を送ったのだ。主人が求めているのは、ぶどう園を奪還することではなく、「主人への敬い」「主人の権威の回復」である。主人に愛され、主人から信頼されたからこそ、この農夫たちは、ぶどう園を任された。だからそれを今一度思い起こして欲しい。息子の姿、息子の言葉を聞いて、あの従順だった農夫の頃を思い起こして欲しい、という願いこそが、愛する息子を送り出した理由なのであった。
ここで思い起こされるのは、神とイスラエルとの関係の修復である。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という思い起こし、である。この世において、主体は神にあること。そして我々が欲すべきは、人間の権利、人間の権威から離れ、神の下に立ち返ることである。
ここで主イエスは、語調を強めてぶどう園の農夫の話をしている。その根源には、神の愛と、神がなさるであろう赦しが語られている。だからこそ立ち返りなさい、と。神殿祭儀を我が物としているユダヤの宗教者たちに対し、その権威と権力は、あなたのものではない事に気づきなさい。そして立ち返りなさい、と、主イエスは語る。神は、人間の罪からも、神の祝福へと導かれる。捨てた方を親石としてそこに礎を築かれる、と言って締めくくる。ここに示された神の愛。我々に対する「それでも罪人を捨て置かれない」というなさり方に目を向け、心を開き、神への立ち返りを、いよいよ強めていきたい。