2018.12.2の説教から

<12月2日の説教から>

皇帝に納める税金

マルコによる福音書12章13節~17節

牧師 三輪地塩

イエスは「皇帝のものは皇帝に」と答えた。それはユダヤ人たち、特にファリサイ派の人たちにとって衝撃的な答えであった。「刻んだ像」の存在を認め、その価値を認めているかのような答えだったからである。しかしイエスの言葉には続きがある。「神のものは神に返しなさい」と。

そもそも皇帝とはどういう存在であろうか。聖書は権力者に対して中立的である。よく知られている、ローマ書13章の中で使徒パウロは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。」と語り、「権力者に従え」と述べられている。

デンマークの有名な哲学者キルケゴールは「皇帝のものは皇帝に」という言葉は、「皇帝に対して、イエスが徹底的に無関心であること示している」と言う。キルケゴールが言うのは、「キリスト者は、政治に無関心でよい」と言うことではなく、「皇帝と神を並列関係に置くこと自体がナンセンスだ」という意味である。「皇帝のものは皇帝に」、という言葉は、後半の「神のものは神に返しなさい」という言葉に全てが集約されている。「皇帝」VS「神」という構図は成り立たず、神に拮抗する巨大勢力としてのローマ皇帝など、君臨すべくもない。イエスにおいて「神のものは神に」という言葉には、全てが「神の下にある」という大前提がある。

我々は、「刻んだ像を作ってはならない」という事を知っているが、神は「ご自分の姿を我々人間の姿に刻んでいる」とも聖書は語っている。我々は「神の像」「神の似姿」。我々はすでに神の似姿であると聖書は主張する。創世記1章で「神はご自分に似せて人間を造られた」とある通り、私たちは神の尊厳が刻み込まれていると聖書は伝えている。この罪深い我々が、神の似姿として生きる事を許可されている。「神の似姿として、人間の尊厳として歩みなさい」と命じられるのである。

神の尊厳と、神に託された命を生きる事、それは決して「我々の栄光」のためではなく、神の栄光のために生きる。それが我々の生涯であり、人生である。