2018.11.18の説教から

<2018年1118日の説教から>
 『神の権威か人間の権威か
 
      マルコによる福音書1127節~33
                 
                            牧師 三輪地塩
   イエスの権威を否定しようとする祭司・律法学者たち 
は、イエスに「何の権威があるのか」と問う。
イエスは「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それと
も人からのものだったか答えなさい」と、律法学者たちに
逆質問をした。
これは律法学者たちを悩ませた。洗礼者ヨハネは、民衆か 
ら好かれていたし、信仰復興・宗教改革者としても十分な 
働きと実力を備えた人である。この彼の洗礼運動が「神が 
与えたものだ」とすれば、律法学者たちは何故それに従わ 
ないのか、と責められるし、逆に「ヨハネが勝手にやり始 
めたことだ」と答えれば、民衆を敵に回してしまう。
 この絶妙な質問によって、律法学者は何も答えられなく 
なるのであった。重要なのは、「彼らは群衆が怖かった。 
皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである」 
という一節である。つまり律法学者たちの権威が、人への 
恐れから来ている事が示される。「神の」の御心を問うべ 
き彼らが、「人間の」顔色をうかがっていたのである。 
 イエスの質問はこのことを暴露するものとなった。祭司 
長・律法学者たちは、神のみを畏れるという一番大切な任 
務を放棄し、つまり「彼らの権威の出発点を放棄した」の 
だ。
 イエスはゲツセマネの祈りの中で、「この苦しみの杯を 
取りのけて下さい」と祈りつつ、「しかし、全ては御心の 
ままに」と続けた。人を恐れ、肉の痛みを恐れそうになる 
弱い我々と同じ苦しみを受けられたイエスは、最後の最後 
で従うべき方、畏れるべき方が「父なる神」であることを 
明らかにしたのであった。
 また、イエスは、あるとき弟子たちに「からだを殺して 
も、魂を殺すことの出来ない者、つまり人間なんか恐れる 
な。むしろ、体も魂も地獄で滅ぼす力を持つお方、つまり 
神を畏れなさい」と言われた。それはその後の弟子たちの 
歩みが、決して前途洋々でなく、迫害や苦しみに遭うかも 
しれないことを知った上で「人間を恐れる必要はない」と 
言われたのだ。本当に恐れなければならない神を畏れるこ 
とは、他の何者をも恐れる必要がなくなる、ということで 
もある。この世に生きる以上、我々には多くの不安が付き 
まとう。先の見えない恐ろしさや恐怖が私たちの心を苦し 
めることも起こる。だが主イエスは、我々がもはや畏れる 
方は真の権威者ただ一人であることを示されたのである。

2019.6.23 礼拝予定

主 日 礼 拝  午前 10:30~
 
奏楽   岩 本 道 子
                 <神の招き>
招 詞  ローマの信徒への手紙121
*讃 詠  (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編1421節~8節b
*讃美歌  (21)12[1-3]
 
<神の言葉>
聖 書 イザヤ書486節~11節  (旧約P.1140
   ペトロの手紙一11節~12節(新約P.428
                            
祈 り                 伊木 美穂子                                                       
*讃美歌  (21)436
  教 「試練によって本物と証明される」     
                   三 輪 地 塩
                                                       
<神への応答>
*讃美歌  (21)459
*十 戒
 公 告
*献金感謝
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福

後 奏          

 
「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は
お座りのままでどうぞ。
礼拝当番(今週)松谷、島口、越智、加藤ヨ
      (次週)三浦、薄田、菊地洋、菊池淑
掃除当番今週)菊地晴、松本、浜田、佐藤真
         加藤ヨ、板垣、草野 
    (次週)薄田、青木、志賀、越智、藤沢、加藤純

2019.06.23~29 今週の集会

今 週 の 集 会
 
祈祷題「会堂改修のため」
聖書の学びと祈りの会        27()10:00
  歴代誌下2章(担当 三輪地塩)   司会
*午前の祈祷会後、「慰安婦」問題「にゅうす」の発送作業をいたします。お手伝いできる方は、宜しくお願いします。

聖書の学びと祈りの会             27日()14:00
  使徒言行録1710節~15     担当
 
牧師予定】
浦和教職者会(インマヌエル浦和24()10001300
立教大学講義 25()、聖学院大学講義  an>26(水)
教会と聖学院との懇談会(聖学院大学)26()1030
『教会の神学』編集委員会(東京主僕)  27()1400
「講師と学生の懇談会」(神学校)    28()1300

2018.11.04の説教から

 
              <114日の説教から>
                『山も動く
            マルコによる福音書1120節~26
                         牧師 三輪地塩
 
  赦すというのは大変難しいものであり、誰でも彼でも、
 何でもかんでも赦すことなどできない。或いは、キリスト
 者だから、信仰者だから「赦さねばならない」と自分の能
 力や素質以上の義務を自分に課してしまうことがあった
 とするならば、信仰が信仰者を破壊することにもなりかね
 ない。「赦せない私は信仰者としては劣ってる」と、もし
 考える事があったならば、それは、赦すことを義務化し、
 赦せない自分自身の足りなさばかりを見つめることにな
 ってしまう。

  しかし、そうであっても、もし主の「愛に押し出された
 赦し」が成り立つのならば、大変に素晴らしいものとなる
 だろう。我々の教会という共同体は、神を礼拝する者たち
 が集まった信仰者同士の交わりである。そこには一つの神
 に対して、一つの信仰が、一つの礼拝によって守られてい
 る場所である。心の中で、隣り人を裁いたまま、仲たがい
 したまま、或いは憎しみをもったまま祈ることは、神への
 不敬、つまり、神への敬いを失った行為となるのである。
 他者への赦しを失ったまま、神様から自分自身の罪の赦し
 を願うことはできない。25節にあるように、「立って祈る
"margin:0mm 0mm 0pt;line-height:115%;"> とき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦し
 てあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父もあなた
 がたの過ちを赦してくださる。」と主は言われる。人を赦
 さないままで祈るとき、自分自身が神から赦されたことに
 まで疑いが生じてくる。私がこんなに赦せていないのに、
 私の罪は赦される筈がない。そのように感じてしまうと
 き、神様の赦し自体を疑ってしまうのである。しかし、神
 はキリストの十字架の赦しは、疑いの余地のないほどに、
 完全な赦しとして完成される。我々の赦しの根源はまさに
 ここにあるのだ

2019.6.16のお知らせ

【中会青年の集い

参加費:¥300(初めて参加の人は無料)

本日15301730 代々木公園(中央広場)
集合場所:代々木公園西門前(雨天の場合も同じ)
 最寄り駅:小田急線 代々木八幡駅
      東京メトロ代々木公園駅
 
◇次週23日(日)避難訓練の担当に当たっている方は、どうぞ
 ご協力お願いします。
総指揮・開始号令:三輪地塩
 安全防御:松谷信司、松沢信宏(排煙扉開閉)
 避難誘導:薄田東正、済陽高志、加藤純子、島口裕香
 避難介助:青木節子、 菊地晴子、安井英子、小出勝
 吉田耕三、國見千秋  道案内:福永真理
 救護:松本京子、入江有妙、入江嘉仁、入江美穂
 会堂残存者確認:森千恵 進行確認:増田裕子(時間)