2017.05.07~05.13 今週の集会


今 週 の 集 会
     ◎祈祷題「新たに牧師を迎えた教会・伝道所のために」
     〇聖書の学びと祈り       11日(木)10:00
  
       列王記上3章(担当)     司会  冨岡 富士子
     〇生と死の学び 
       
       三浦綾子著 『泉への招待』② 11日(木) 同上後
                ・聖書と私
                ・広き門
                         担当  松本 京子
    〇聖書の学びと祈り       11日(木)14:00
  
      ホセア書7章           担当  角野  託司
    〇全国青年の集い実務委員会(代々木公園〰柏木教会)
                    
                        13日(土)11:30

2017.01.15の説教から

<2017年1月15日の説教から>
『わたしはあの男に何の罪も見いだせない』
ヨハネによる福音書18章38節b~19章7節
                               牧師  三輪地塩


ピラトはユダヤ人たちに問いかけた。「ところで、過越祭にはだれか
一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の
を釈放してほしいか。」

 ピラトははイエスを解放しようとしたがユダヤ人たちの答は「その男だ

ない。バラバを」であった。バラバは十字架の「赦免」の場面にしか出

てこないが、キリスト教界では有名な人物となった。マタイ福音書ではバ

ラバの罪状については触れず、マルコは「暴動時の殺人」と伝える。

ルカ福音書は「殺人」ヨハネ福音書は「強盗」と書かれている。おそらく

は、ローマ帝国への武力抵抗を訴えた熱心党(ゼーロータイ)の一員

だったのではないかと考えられる。

 「バラバ」という名前、「バラッバース」というのが言語での読み方であ

が、「バル」(誰々の子)、「アッパース」(人物名)で「アッパースの子イ

ス」という事になる。

 これは大変興味深いことである。19章7節で「わたしたちには律法があ

ます。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称した

からです。」と言われているように、「神の子と自称した」ことを罪状にし

ているからである。

 つまり、ピラトはユダヤ人に二つの選択を迫っているのである。「アッ

スの子イエスを釈放するか」それとも「神の子イエスを釈放するか」の

選択である。民衆は、神の子と━どこの馬の骨とも分らない輩である━

アッパスの子のうち、後者を選択したのである。何と愚かなチョイスであ

ろうか。

 ピラトはイエスを民衆の前に引き出し、「これで勘弁したらどうだ」という

意味を込めて「見よこの男だ」といった。由木康作詞の121番の讃美歌

は「~この人を見よ」が1~4番の全てでリフレインされる。特に4番は「

この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は、あらわれたる。この人を見
よ、この人こそ、人となりたる、活ける神なれ」と歌われ、「この人を見

よ」何度も繰り返される。「この人」とは、決してアッパスの子などでは

く、真の神の子である、という信仰告白をこの讃美歌の中に見いだす。

2017.05.07主日礼拝予定

           主日礼拝        午前10:30
【聖餐式】
奏楽  板 垣 玲 子
                
<神の招き>
       招 詞  ローマの信徒への手紙 12章1節
      *讃 詠  545B
      *罪の告白と赦し  交読詩編 6編1節~10節
      *讃美歌  74
<神の言葉>
       聖 書  申命記 7章6節~8節(旧約P.292)
             フィリピの信徒への手紙 1章1節~2節(新約P.361)
       祈 り 
     *讃美歌  270
     
     説 教  「イエス・キリストの僕」 
      三 輪 地 塩
<神への応答>
     *讃美歌  495
     *日本キリスト教会信仰の告白
       聖餐式  205
       公告
     *献金感謝  (21)495
     *主の祈り
     *頌 栄  543
     *派遣と祝福
     *後奏

2017.04.30~05.06 今週の集会

今 週 の 集 会
祈祷題「平和憲法を覚えて」(5/3)
      「日曜学校のため」 (5/5)
聖書の学びと祈り                 4日(木)10:00
      ルカによる福音書16章1節~8節a  (午前・午後合同)
      説教代読:森崎・増田・伊木       司会 須田 美奈子
古河・下館伝道所  藤塚聖牧師 就職式   4日(木)14:00
      (古河伝道所と下館伝道所を兼牧)
 

<2017年1月8日の説教から>『真理とは何か』

<2017年1月8日の説教から>
『真理とは何か』
ヨハネによる福音書18章28節~38節a
牧師  三輪地塩
 イエスの裁判の場面である。ローマの総督のピラトは、37節で「それではやはり王なのか」と三度目の質問をしている。「ユダヤ人の王ではない」とイエスに答させ、
政治違反の罪で「不起訴」にしようとしていたからである。しかしイエスは、イエスともノーとも答えず「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」という曖昧な答えしかしていない。
 
 この箇所の難しいところは、この最後の部分にある。
イエスのいう「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」
という回りくどい言い回しは、ギリシャ語の慣用句としては「(あなたの言う通り)私は王である」の意味に解釈できる言い回しであると言われる。それゆえ口語訳聖書ではこれを肯定分として翻訳し「イエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、私は王である」(口語訳)と肯定文で訳している。
しかし本来、このイエスの答えは、曖昧にすべきなのではないかと思う。つまり、イエスはこの言葉を肯定でも否定でも語っておらず、質問者の意志を問うているのだ。
 弟子のペテロは「私を誰と言うか」に対し「あなたはメシアです」という信仰告白をした。それと同じように、この箇所でイエスが問うのは、「私を誰と言うか」である。
ピラトはここで第三者として、傍観者として、観客席にすわってイエスを批評し、裁こうとしている。だがイエスはそのピラト自身の主体性を問うのである。「あなたは 私を誰と言うか」と
 ピラトは、イエスの罪を見つけることはできなかった。それはピラト自身の善意から、彼の道徳心によってイエスを処罰したくないと思わせたのかもしれない。
だが善意や公平さのような倫理道徳観では、真のメシア・キリストと出会うことは出来ないのだ。信仰の告白、真理を語る方の、真理に耳を傾けることが出来るか、
それは、我々の主体性の中にあるからだ。

2017.04.30 主日礼拝予定

主 日 礼 拝    午前  10:30

奏楽  田端 誠治

          <神の招き>
 
  招 詞  詩編16編10節~11節
 *讃 詠  (21)83
 *罪の告白と赦し  交読詩編143編7節~12節
 *讃美歌  (21)210(1~2)

         <神の言葉>
  
  聖 書  イザヤ書66章1節~2節(旧約P.1169)
        ヨハネによる福音書21章20節~25節(新約P.212)
  祈 り                      河野 武郎 
 *讃美歌  (21)578
  
  説 教  「この証しは真実である」  三輪 地塩

         <神への応答>
 *讃美歌  (21)419
 *使徒信条
  公 告
 *献金感謝
 *主の祈り
 *頌 栄  (21)46
 *派遣と祝福
 *後 奏