2019.01.13~19 今週の集会

  今 週 の 集 会
祈祷題「定期総会の準備のため」
日曜学校教師研修会(横浜海岸教会)  14(月・休) 1030

聖書の学びと祈りの会               17() 1000

  歴代誌上12章(担当 三輪地塩)  司会 伊木 美穂子

聖書の学びと祈りの会                17() 1400

  ヘブライ人への手紙214節   担当
※午前の祈祷会後、総会議事資料綴じと配布作業を致します。

2019.01.13 礼拝予定

主 日 礼 拝  午前 10:30
     
 
奏楽 
 
                 <神の招き>
 
招 詞  詩編119105
*讃 詠  545A
*罪の告白と赦し 交読詩編12616
*讃美歌  7
 
<神の言葉>
聖 書 詩編1101節~4節  (旧約P. 952
   マルコによる福音書1235節~37
               (新約P.87                         
祈 り             松 谷 信 司                                                                                                                                         
*讃美歌 151
   ダビデの子」     三 輪 地 塩
 
                                                       
<神への応答>
*讃美歌 195
*ニカイア信条
 公 告 
*献金感謝           
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  542
*派遣と祝福
後 奏 

2019/1/6 説教音声 三輪地塩

説  教  「新しい年が与えられて」

聖 書 創世記12章1節~9節   (旧約P.15)

ヘブライ人への手紙11章8節~12節(新約P.415)











2018.06.24の説教から

624日の説教から>
『私を何者だというのか』
          マルコによる福音書827節~30
                      牧師 三輪地塩
 
 「人々はわたしのことを何者だと言っているのか」この質問は非常に深い。周囲の人々(民衆たち)の客観的な評価ではなく「あなたがたはどうなのか」と、弟子たちの主体的信仰告白を問うている。これは我々への問い掛けでもある。
 この問いは、ゲーテ、トルストイ、ニーチェ、太宰治、遠藤周作など多くの文学者たちの関心事でもあった。文学者の関心は、「史実のイエス像」に迫ることではない。彼ら文学者たちが、イエスをどう理解し、どう聖書から読み取るか。また、彼らにとってイエスとは誰なのか、という問いである。あらゆる文学作品には、書く者の人間観、信仰観、人生観などが反映され、ロマンティックな人はロマンティックなイエスを、革命的な人はイエスを革命家として描き出してきた。
 だが、この箇所の「私を誰というか」の問いは、必ずしも文学者たちの関心事を言っているのではない。「あなたたちにとって、イエスとは何なのか」である。
 我々にとって、人と人との関係はいつも決断的である。例えばこんなことがあるだろう。自分の親友の悪い噂を聞いた時、我々はどうするか。本人に何も確認することなく、その噂話を信じるのか。それとも自分が知っている親友を信じて、噂話を一蹴するのか。そこには、我々の決断がある。「いじめの構造」なんかも、似た構造をしているかもしれないが、重要なのは、その人が(親友)が、あなたにとって誰なのか、あなたにとってどういう存在であるのか、に掛かっている。問題は人の噂ではない。自分の主体性である。人がなんと言おうと、私はその人をどう理解し、どう信じるか、である。
我々の信仰もこれに似ている。あなたにとってキリストとは誰かの問いに対し、ペトロが躊躇せずに「あなたはメシアです」と答えたように、告白したいものである。