<12月30日の説教から>
『神と隣人とを愛する』 マルコによる福音書12章28節~34節
牧師 三輪地塩
三浦綾子の『ひつじが丘』という作品の話。主人公は牧師家庭に生まれた娘。牧師(父)に反抗を繰り返し、父に言われることの反対ばかり行なっていた。しかしその結果、大変な人(厄介な男性)と出会ってしまい、苦しい人生を歩むことになってしまう。心が折れ、ボロボロになる中で、父は娘に言う「愛するとは赦すことだよ」と。最初はその言葉を受け入れることが出来なかった娘も、次第に心がほぐれ「愛とは赦すこと」の深淵なる意味に触れるようになっていく。決してハッピーエンドではないが、「愛とは赦すこと」という言葉が作品全体に響き渡る、印象的なストーリーである。
キリスト者である我々は、「愛とは赦すこと」という言葉に共感し、これを真っ向から否定することは少ないと思う。だが、これを実践せよ、と言われた途端、この言葉が重くのしかかってくるだろう。
だが、ここで考えたいのは、本当に我々の心は「敵対する人を愛する」という方向に向いているのか、ということである。つまり、最初から赦すつもりになっていないのではないか。それなのに、やれ「赦せない」だの、やれ「私にはできない」だの、結局「出来ない」という前提の枠の中に、自らを閉じ込めてしまっているのである。
だが、よく考えてほしい。「敵を赦す」という言葉には、既に「敵」という否定語が使われている。つまり、心から敵を愛することなど出来ないのだ。「隣人を愛する」と「敵を愛する」という事柄が、同等の意味を持つのだとするならば、我々は、「愛する」ということを、一生懸命頑張って行わねば達成できないことなのだ。心のままに自然体のままで敵を赦すことが出来れば何も言うことはない。しかしそんな人はよほどの「鈍感力」「無痛症」でなければできない。人間はそんなに強くないのだ。人間はそんなに立派ではないのだ。むしろ、一生懸命頑張って人を愛し、一生懸命頑張って赦そうと努力する。そのことなくして、「私にはできない」と諦めてはならない。
イエスのゲツセマネの祈りを見て欲しい。「もし可能であればこの苦しみの杯を取り除いて下さい」と切実に祈った。あの祈りは、自分を殺そうとする者たちをどう赦せば良いのか。どう受け止め、その悪の感情をどう昇華していけば良いのか、という祈りだったのではないか。イエス・キリストは、死の瞬間まで「真の神にして、真の人」であり続けたのだ。
2019/7/21 説教音声 三輪地塩
説教 「権力への服従か?自由な生活か?」
聖 書 箴言24章19節~22節 (旧約P.1022)ペトロの手紙一2章11節~17節(新約P.430)
2019.7.21の礼拝予定
主 日 礼 拝 午前 10:30
奏楽 三 輪 志 都
<神の招き>
招 詞 マラキ書3章1節
*讃 詠 545A
*罪の告白と赦し
(交読詩編144編3 節~8節)
*讃美歌 54(1−3)
<神の言葉>
聖 書 箴言24章19節~22節
(旧約P.1022)
ペトロの手紙一2章11節~17節
(新約P.430)
祈 り 加 藤 純 子
*讃美歌 519
説 教「権力への服従か?自由な生活か?」
三 輪 地 塩
<神への応答>
*讃美歌 Ⅱ182
*使徒信条
公 告
*献金感謝
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄 543
*派遣と祝福
*後 奏
「*」の箇所は起立して行いますが、
立つのが困難な方はお座りのままでどうぞ。
礼拝当番(今週)伊木、小出勝、河野武郎、河野武子
掃除当番(今週)済陽、森﨑、國久、新畑
鈴木、小出勝、武政み
礼拝当番(次週)加藤、菊地、佐藤真、佐藤允
掃除当番(次週)深沢、阿部、岡野、松沢
小出和、室橋、戸田
*礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください。
奏楽 三 輪 志 都
<神の招き>
招 詞 マラキ書3章1節
*讃 詠 545A
*罪の告白と赦し
(交読詩編144編3 節~8節)
*讃美歌 54(1−3)
<神の言葉>
聖 書 箴言24章19節~22節
(旧約P.1022)
ペトロの手紙一2章11節~17節
(新約P.430)
祈 り 加 藤 純 子
*讃美歌 519
説 教「権力への服従か?自由な生活か?」
三 輪 地 塩
<神への応答>
*讃美歌 Ⅱ182
*使徒信条
公 告
*献金感謝
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄 543
*派遣と祝福
*後 奏
「*」の箇所は起立して行いますが、
立つのが困難な方はお座りのままでどうぞ。
礼拝当番(今週)伊木、小出勝、河野武郎、河野武子
掃除当番(今週)済陽、森﨑、國久、新畑
鈴木、小出勝、武政み
礼拝当番(次週)加藤、菊地、佐藤真、佐藤允
掃除当番(次週)深沢、阿部、岡野、松沢
小出和、室橋、戸田
*礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください。
2019.7.21のお知らせ
◇次週、礼拝後に日曜学校「夏の集い」を行ないます。
参加ご希望の方は受付の出席名簿にご記入ください。
参加費(昼食代)は大人のみ300円です。(担当:岡野)
◇新 HP.ブログの件
ヤフーブログを終了し、新HPを開設し、
ブログ・Facebook・ツイッターを全て纏めました。
会員のページを開くには
会員ユーザーIDとパスワードが必要です。
下記担当者または長老・執事にお尋ねください。
(担当:三輪地塩牧師、松谷信司、小出勝、新畑信)
②ロゴマークの募集
応募締め切りは10月31日(木) 詳細は1階の掲示板に。
参加ご希望の方は受付の出席名簿にご記入ください。
参加費(昼食代)は大人のみ300円です。(担当:岡野)
◇新 HP.ブログの件
ヤフーブログを終了し、新HPを開設し、
ブログ・Facebook・ツイッターを全て纏めました。
会員のページを開くには
会員ユーザーIDとパスワードが必要です。
下記担当者または長老・執事にお尋ねください。
(担当:三輪地塩牧師、松谷信司、小出勝、新畑信)
【日本キリスト教会70周年記念】
①記念讃美歌の募集②ロゴマークの募集
応募締め切りは10月31日(木) 詳細は1階の掲示板に。
2019.7.21~27今週の集会
本 日 の 集 会
〇日曜学校 9:00
〇朝カフェ(担当 松谷信司) 9:30
○入会準備会 9:00
〇入門の会(担当 三浦勇二) 9:45
〇クワイア練習 礼 拝 後
〇コイノニア 礼 拝 後
〇日曜学校教師会 礼 拝 後
今 週 の 集 会
◎祈祷題「会堂改修のため」
「日曜学校夏の集いのため」(7月28日)
〇聖書の学びと祈りの会は午前・午後とも
7月18日(木)~9月12日(木)まで休会です。
〇日曜学校夏の集い買い物 27日(土)
準備は当日いたします。
【牧師予定】
〇聖学院大学講義 24日(水)
次 週 礼 拝
<こどもとおとなの合同礼拝>
説教「バベルの塔」 三 輪 地 塩
創世記11章1節~9節
使徒言行録2章1節~13節
讃美歌 545B、55(1-3)、520、Ⅱ188、544 三 輪 志 都
〇日曜学校 9:00
〇朝カフェ(担当 松谷信司) 9:30
○入会準備会 9:00
〇入門の会(担当 三浦勇二) 9:45
〇クワイア練習 礼 拝 後
〇コイノニア 礼 拝 後
〇日曜学校教師会 礼 拝 後
今 週 の 集 会
◎祈祷題「会堂改修のため」
「日曜学校夏の集いのため」(7月28日)
〇聖書の学びと祈りの会は午前・午後とも
7月18日(木)~9月12日(木)まで休会です。
〇日曜学校夏の集い買い物 27日(土)
準備は当日いたします。
【牧師予定】
〇聖学院大学講義 24日(水)
次 週 礼 拝
<こどもとおとなの合同礼拝>
説教「バベルの塔」 三 輪 地 塩
創世記11章1節~9節
使徒言行録2章1節~13節
讃美歌 545B、55(1-3)、520、Ⅱ188、544 三 輪 志 都
2019.7.21週報掲載の説教
<2018.12月9日の説教から>
『復活の問答』
マルコによる福音書12章18節~27節
牧師 三輪地塩
復活を信じないサドカイ派たちは、イエスに詰め寄る。復活などがあったとしたら、ややこしくなるではないかと。「第一の夫、第二の夫というように、七人と結婚したけれども、最後まで子が与えられないまま、その女性が死んでしまった場合、復活の時が来たら、この妻は誰の妻であると言えるのか。7人全員の妻になったではないか。だから死者の復活などはあり得ない。そんなことがあれば、混乱してしまうし、律法と矛盾したことになってしまうだろう」。このようにイエスに議論を仕掛けて来た。
ある種の上げ足取り、あるいは屁理屈のようにも感じさせる。サドカイ派は、貴族・祭司族として、特権階級を生きることが出来ればそれで良かったし、社会構造やそれまで信じていたことを根本から変えられては困ると思っていた。
サドカイ派たちは、復活という出来事を、彼らが想像できる範囲の中でしか理解していなかった。人は死んだ後どうなるのか。夫あるいは妻はどうなるのか。復活したときどんな服を着るのか。若くして死んだ人は若いまま復活し、老人は老人の姿で復活するのか、という理解であり。つまり、復活を地上の延長でしか考えることが出来ていなかったのだ。
だがこれは、現代の我々にも同じことが言える。主イエスが言われた25節の言葉、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」、これを聞いて我々はどう思うか。これを簡単に理解することは難しい。我々は心のどこかで、恐らくこうつぶやくのだ。「死ぬと「家族との繋がりや、親しい友人たちとの繋がりもなくなってしまうのだろうか」と。
カール・バルトという神学者が、牧師をしていた頃、あるご婦人に「先生、私が死んだら、この愛する人たちといつまでも永遠に一緒に過ごす事が出来るのでしょうか。とても楽しみにしているのです」と質問された。これに対しバルトは、「ええ、もちろんその通りです。しかしあなたが苦手とする、あの奥さんも同じ場所に行きますがね」と答えたという。
バルトの皮肉はさておき、彼の言っていることは間違いではない。天国についても、復活の命についても、それは、私たちの願いたい願いのように、私たちの都合の良い形でそれが起こる、と信じるのは間違っている、ということである。天の国、復活の命は、我々の理解を超えて到来するのだ。
『復活の問答』
マルコによる福音書12章18節~27節
牧師 三輪地塩
復活を信じないサドカイ派たちは、イエスに詰め寄る。復活などがあったとしたら、ややこしくなるではないかと。「第一の夫、第二の夫というように、七人と結婚したけれども、最後まで子が与えられないまま、その女性が死んでしまった場合、復活の時が来たら、この妻は誰の妻であると言えるのか。7人全員の妻になったではないか。だから死者の復活などはあり得ない。そんなことがあれば、混乱してしまうし、律法と矛盾したことになってしまうだろう」。このようにイエスに議論を仕掛けて来た。
ある種の上げ足取り、あるいは屁理屈のようにも感じさせる。サドカイ派は、貴族・祭司族として、特権階級を生きることが出来ればそれで良かったし、社会構造やそれまで信じていたことを根本から変えられては困ると思っていた。
サドカイ派たちは、復活という出来事を、彼らが想像できる範囲の中でしか理解していなかった。人は死んだ後どうなるのか。夫あるいは妻はどうなるのか。復活したときどんな服を着るのか。若くして死んだ人は若いまま復活し、老人は老人の姿で復活するのか、という理解であり。つまり、復活を地上の延長でしか考えることが出来ていなかったのだ。
だがこれは、現代の我々にも同じことが言える。主イエスが言われた25節の言葉、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」、これを聞いて我々はどう思うか。これを簡単に理解することは難しい。我々は心のどこかで、恐らくこうつぶやくのだ。「死ぬと「家族との繋がりや、親しい友人たちとの繋がりもなくなってしまうのだろうか」と。
カール・バルトという神学者が、牧師をしていた頃、あるご婦人に「先生、私が死んだら、この愛する人たちといつまでも永遠に一緒に過ごす事が出来るのでしょうか。とても楽しみにしているのです」と質問された。これに対しバルトは、「ええ、もちろんその通りです。しかしあなたが苦手とする、あの奥さんも同じ場所に行きますがね」と答えたという。
バルトの皮肉はさておき、彼の言っていることは間違いではない。天国についても、復活の命についても、それは、私たちの願いたい願いのように、私たちの都合の良い形でそれが起こる、と信じるのは間違っている、ということである。天の国、復活の命は、我々の理解を超えて到来するのだ。
