2019.7.21週報掲載の説教

<2018.12月9日の説教から>

復活の問答

マルコによる福音書12章18節~27節

牧師 三輪地塩

復活を信じないサドカイ派たちは、イエスに詰め寄る。復活などがあったとしたら、ややこしくなるではないかと。「第一の夫、第二の夫というように、七人と結婚したけれども、最後まで子が与えられないまま、その女性が死んでしまった場合、復活の時が来たら、この妻は誰の妻であると言えるのか。7人全員の妻になったではないか。だから死者の復活などはあり得ない。そんなことがあれば、混乱してしまうし、律法と矛盾したことになってしまうだろう」。このようにイエスに議論を仕掛けて来た。

ある種の上げ足取り、あるいは屁理屈のようにも感じさせる。サドカイ派は、貴族・祭司族として、特権階級を生きることが出来ればそれで良かったし、社会構造やそれまで信じていたことを根本から変えられては困ると思っていた。

サドカイ派たちは、復活という出来事を、彼らが想像できる範囲の中でしか理解していなかった。人は死んだ後どうなるのか。夫あるいは妻はどうなるのか。復活したときどんな服を着るのか。若くして死んだ人は若いまま復活し、老人は老人の姿で復活するのか、という理解であり。つまり、復活を地上の延長でしか考えることが出来ていなかったのだ。

だがこれは、現代の我々にも同じことが言える。主イエスが言われた25節の言葉、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」、これを聞いて我々はどう思うか。これを簡単に理解することは難しい。我々は心のどこかで、恐らくこうつぶやくのだ。「死ぬと「家族との繋がりや、親しい友人たちとの繋がりもなくなってしまうのだろうか」と。

カール・バルトという神学者が、牧師をしていた頃、あるご婦人に「先生、私が死んだら、この愛する人たちといつまでも永遠に一緒に過ごす事が出来るのでしょうか。とても楽しみにしているのです」と質問された。これに対しバルトは、「ええ、もちろんその通りです。しかしあなたが苦手とする、あの奥さんも同じ場所に行きますがね」と答えたという。

バルトの皮肉はさておき、彼の言っていることは間違いではない。天国についても、復活の命についても、それは、私たちの願いたい願いのように、私たちの都合の良い形でそれが起こる、と信じるのは間違っている、ということである。天の国、復活の命は、我々の理解を超えて到来するのだ。