誘惑に陥らないように祈りなさい

2009.10.18  ルカ福音書 22:34-46  三輪地塩 牧師

 「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけて下さい。しかし私の願いではなく、御心のままに行って下さい」(42節)という主イエスの祈りは、畏れの中にありながら、熱心に神の御心を見つけ出しているように思えます。

 私たちは、自分の祈りが適わなかったとき落胆してしまいます。しかしこの箇所が教えるのは、祈りとは、目をつぶって大願成就のために手を合わせる事ではなく、目を見開いて、サタンの誘惑を見分けると共に、自分の願いを神の願いへと合わせられていく戦いである、という事です。

 弟子たちは「誘惑に陥らないように」と再三言われますが、それは「私の願い」が神の思いを侵食してしまう誘惑、「私の思いこそが神様の思いである」という、「思い上がり」という名の誘惑です。しかしその誘惑に陥らずに、「変わりうるものと変わりえないものを識別する知恵と思慮分別をお与えください」(ラインホルト・ニーバー)と祈ることの出来る戦いが必要なのです。自分の思いや願いが強くそこにあるとき、真っ先に神の思いを見つけねばなりません。そのために、主イエスが苦しみ(アゴーニア)もだえたように、我々もまた、熱心に(アゴーニア)神の御心を求めねばならないのです。

 「祈りが適う」とは、物理的・現象的な成就ではなく、むしろ私たち自身が神の思いに変えられていくことではないでしょうか。私たち自身が変化され、刷新されていくこと。これこそが祈りの意味であり、祈りが聞き入れられる喜びであると思うのです。

恵みは弱さの中に

2009.10.11  ヨハネ福音書 9:35-41  牧師 中家 誠

 ヨハネ福音書9章は、「生まれながらの盲人」が、霊肉共に「見える人」とされて行く物語りである。従って、この「生まれながらの」ということは、わたしたち自身のことであり、人類全体のことを指しているように思われる。わたしたちはまさしく、「生まれながら」には、神を見ることも知ることもできない者たちなのである。

 この開かれて行く盲人は、その後、様々な試練(迫害)に、会いつつ、成長して行くのである。その彼に、主ご自身の方から出会ってくださり、「あなたは人の子を信じるか」と問いたもう。「主よ、その方を信じたいのですが」。「あなたは、もうその人と会っている」。信仰を与え、それを確かなものにしてくださるのは、主ご自身であり、また聖霊の働きである。

 「人の子」とは、ヨハネ福音書では、天地創造の神である方が、この弱くもろい限りある人間の中に、人となって宿ってくださるその恩寵の御姿を表わす言葉と思われる。日本キリスト教会信仰の告白の中にも、「われらが主と崇める神のひとり子イエス・キリストは、真の神にして真の人」とあり、ニカイア信条にも、「御子は御父と本質を同じくし」とあるその内容と同じである。

 このような「秘儀」を、わたしたちに理解させてくださるのは聖霊である。かくして、父・子・聖霊の三位一体の神の恵みにより、わたしたちは神を知り、神を見ることができ(仰ぎ見る)、神との永遠のいのちの交わりの中へと入れていただくのである。

 この恵みは、わたしたちの弱さ(罪人)のただ中で達せられるところのものなのである。(Ⅰヨハネ1:8-10)。