神の御子が人となって

2009.12.20 ヨハネ福音書 1:14-18  牧師 中家 誠

 クリスマスは、神の独り子が人となってこの世に来られた出来事である。この事を心から喜び祝いたい。

 ①「言(神)は肉となって、わたしたちの間に宿られた(天幕を張った)」(14節)。昔、イスラエルの民は羊を飼う遊牧民として天幕生活をしており、その中心に、「臨在の幕屋」と呼ばれるものがあった(出エジプト記40:34-35)。そこにおいて民は神を礼拝し、荒野(シナイ半島)の旅の間、常に神は共におられた。今や、神は人となって、わたしたちの間に住みたもう。これが主なるキリストである。

 ②「わたしたちは、その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(14節)。真理は常に正しいものでなければならない。それはどんな嵐の日にも、北を指し続ける羅針盤のように、わたしたちの行く手を照らすのである。わたしたちの地上の旅路の間、それは絶えることがない。

 ③「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(18節)。御子は、父なる神と最も親しい間柄の中におられた方である。そこには、この世にないほどの親密な交わりがある。その方が人となって来られたということは、父を示してくださると共に、その親しい交わりの中に、わたしたちを招き入れてくださるということでなくて何であろう! これこそが「永遠の生命」なのである。

慰め主(ぬし)の到来

2009.11.29  イザヤ書 40:1-11  牧師 中家 誠

 今のこの時代、人の心は破れ、傷ついており、真の癒しを必要としている。聖書は、その真の癒し、慰めについて告げている。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」と(イザヤ40:1)。

 旧約のイスラエルの民は、紀元前6世紀に、バビロン捕囚という大きな苦難(どん底)に陥った。その民に向けて神は、「この民を慰めよ」と言われる。創造者にして歴史を支配される神の絶対的な御力と、同時に、その深い慈しみの御手をもって。「主は羊飼いとして群を養い、……小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(イザヤ40:11)。

 神は真の裁き主である。と同時に、否、それゆえにこそ、真の慰め主でもあられる。この神が、ご自身の限りない慈しみの御手をもって、われら人類を慰め癒してくださろうとするのが、御子イエス・キリストの到来(アドベント、クリスマス)である。この御方の中にこそ、汲んでも尽きない神の恵みの泉が宿されているのである。

3月8~13日の集会

◎祈祷題 「信仰の継承のため」

○聖書の学びと祈り 10日(水) 19:30 ローマ書 8:18-30 関口安義

○聖書の学びと祈り 11日(木) 10:00 ローマ書 14:13-23 矢部順子

○トレインキッズ 13日(土) 11:00~13:30 「やきそば作り」 

3月14日の礼拝

10:30~ 主日礼拝 <レントⅣ>

説教「主、弟子の足を洗いたもう」

ヨハネ福音書 13:1-15  中家 誠牧師

9:00~ 日曜学校

説教「一人も滅びないで」

ヨハネ福音書 3:16-21  河野 美文


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人が受ける試み

2009.11.15  詩編 73:1-28  牧師 中家 誠
 
 わたしたちは、この世に生きる限り、「試み」というものを避けることができない。悪へと誘う誘惑があり、理想を求め成長していく中での行きづまりもある。信仰にも試みがある。信仰は存在をかけて生きるだけに、試みにも厳しいものがる。

 この詩編73編の信仰者の場合もそうであった。彼は、「悪しき者の安泰を見てうらやみ」、「信仰者である自分の空しさを思った」という。神に逆らう者が富み、かつ健康で、大言壮語し、禍いに会うこともない。これを見てねたんだのである。「果たして神は、これを見ておられるのだろうか」と。

 その時、神は彼を、「心の聖所」へと導いてくださったのである。その時、一瞬にして、彼らの行く末を悟った。あたかも稲妻が闇夜を引裂くように、彼の心の闇を照らしたのである。 

 人は永遠者の光のもとに立つとき、何とはかなく、もろいものであることか! この世は自分の中に、永遠の生命をもたない。神のさばきの下には、死と滅びがあるのみである。

 それに対して、神を信じる者は、何と大きなものを与えられていることか! 神ご自身という偉大な御方そのものを与えられているのである。「神こそ、わたしの嗣業、わが宝である」。この御方の愛の御手の中にあることこそ、人間の至福であり、その方との交わりの中に、永遠の生命が宿っていることを。

 この恵みに生きるために、人は自分の思考を止めて、神の思考の中へと移し変えられなければならない。これこそ聖霊の御業なのである。「神と共に生きることの幸い」こそ、人間にとって究極のものなのである。

神さまと隣人を愛して生きる

2009.11.8  マルコ福音書 12:28-34  牧師 中家 誠

 ある人が主イエスに、「神の戒めの中で、何が一番大切なものでしょうか」と問うた。主イエスは、「心を尽くし、力を尽くして神を愛すること、また、自分のように隣人を愛すること」と答えられた。これは、人が生きていく上でなくてならない2本の柱である。

 では、なぜ「神を愛すべき」なのか? それは神がわたしたちの造り主であり、ご自身を与えるほどにわたしたちを愛し、永遠の生命へと導かれる御方だからである。わたしたちの産みの親、育ての親以上の御方だからである。

 では、なぜ「隣人を愛すべき」なのか? それは隣人もまた、神によって造られており、神から愛を受けている者だからである。「目に見える人を愛さないで、どうして目に見えない神を愛することができるだろうか」との御言葉もある
(Ⅰヨハネ4:20)。

 この2つの大きな目標。これは神から与えられた課題であり、わたしたちのこの世で生きていく行い(おこない)の、行きつく先にあるものなのである。これを見失った時、わたしたちは大きな誤ちを犯すことになるのである。この事をいつも忘れないで生きて行きたい。