聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記4章1節-26節 2010年5月27日

 今日の箇所はカインとアベルの物語です。何度も聞いてきたことのあるこの話の中に込められた神様の言葉を共に聞きたいと思います。ブルッグマンという旧約学者はこの箇所について、「この世の中は、兄弟殺しが如何に醜悪で受け入れ難い行為であるかを知っている。わざわざ聖書に宣言させるまでもない。それゆえに我々は、この物語を道徳的な観点から取り扱うことによってつまらなくしてはいけない。」このように述べています。事実この箇所において兄弟殺しという事柄それ自体は、特にどのような仕方で、どのように行なわれたかについては述べられえておりませんで、8節のみによって手早く取り扱われております。つまりこの物語の語り手にとって重要なのは、人が罪を犯すこと、犯した罪が自らをどう蝕んでいくかということ。そして神と殺人者との関係、であります。

 そもそも人間世界において、「兄弟」という現実「姉妹」という現実は、それ自体喜びであり、厄介な問題ともなりえます。興味深いことに創世記は、全体を通して「兄弟」というテーマが、通奏低音として流れていることが分かります。アブラハムの系図では、イサク、ヤコブと続きますが、このヤコブの12人の兄弟が骨肉の争いを繰り広げることはご承知の通りであります。私たちが兄弟と共に生き、兄弟とのディレンマに満ちた歩みが与えられたことそれ自体が、神様からの恵みであり、また試練であるとも言えるのではないかと思うのです。

 さて、本文を見てみましょう。3章でエデンの園を追放されたアダムとエバが二人の子をもうけます。長男はカイン、次男はアベルでありました。カインは農夫に、アベルは羊飼いになったといいます。ユダヤにおいて通常長男が優勢に立つことは当たり前のことでしたから、この物語を読んだ人は誰もが、カインはアベルに対して優位な立場にいすることは当然のこと感じたのであろうと思います。

 カインという名前は、ヘブル語のカーナー「得る、造り出す」という動詞に由来しています。人の名前は神様での讃美として与えられるものと考えられていた文化の中にあって、カインという名前は喜び祝われた者を意味し、神様に存分に目を留められていることが分かります。つまり生命力の具現、生命への可能性が示されています。それに対してアベルという名前は「空気、無」という意味でありまして、生命の可能性のなさが示されています。この時点で聖書は、カインへの祝福が確証されたものという位置づけにするわけです。そして当然カイン自身も、自らの優位性と生命への可能性を自負する者として、すなわち長男として生きることの誇りと、同時に驕りを持っていたのでありましょう。そのため彼は、神様が自分の献げ物に目を留めなかったことに憤慨し、「激しく怒って顔を伏せた」のでありましょう。

 よく疑問にされることは、なぜカインの献げ物がいけなかったのか、ということでありますが、聖書にははっきりとその理由について語られておりません。一つの説として挙げられるのは、カインが単に「土の実りの物」を献げたのに対して、アベルは「羊の群れの中から越えた初子」を持ってきたからだ、とよく言われます。カロリー計算にうるさい現代人にとって、脂肪分はカットされるべきものという感覚があるかもしれませんが、飽食の民であるから言えることでありまして、砂漠の民、荒れ野の民からすれば、脂肪分は人間の摂取すべき大切な栄養源であり、大変に高価なものでありました。その高価なものを、さらにたくさんいる群れの中から良いものを選び出して献げたアベルの思いを神様が認めた、ということは想像に難くないことであろうと思います。しかし聖書は、状況証拠を残しつつも、明確な理由を述べておりません。実はここが大事なのではないかとも思います。つまり私たちはカインとアベルの行いの中に、どちらの中に非があり、どうすればそれを回避できたか、という因果関係を見つけ出そうとして聖書を読むと思います。なぜ神様はカインの献げ物を喜ばれなかったのだろう、神様がベジタリアンであればあるいはカインの方を喜ばれたのかもしれない、などとその理由付けをすると思うのです。しかし時として聖書は、私たち人間が求める合理的な説明や、納得のいく、説得力のある答えを提示してくれないことがあります。こうすれば神様は喜ばれる、と分かっているなら誰でもそのようにするでしょう。神様を信じていなくても、そうしておけば損は無い、無難に祀っておけとばかりに神様の好きなものを献げるでしょう。しかし今日の箇所が私たちに示すのは、神様の御心は分からない、ということであります。至極当たり前のことでありますが、意外とそのことを私たちは見落としがちです。どうすれば神が喜ばれるのか、何がすきなのか。そのことは聖書を読んでみても、ある程度しか分かりません。有限の私たちが、無限の存在である神様の細部にわたる思いを知ことなど到底不可能だということであります。

 つまり私たちは、神様の前にへりくだる、謙虚に身を慎む、ということしか出来ないと思うのです。神様の御心を何もかも知っている、と信じて疑わなかったのが、ファリサイ派の人たちです。イエス様はその彼らに否を唱えました。神の御心は神ご自身がお決めになる、と言って、律法主義的な神様の間違いを暴いたのです。
  
 私たちにとって神様とは、支え、守り、導いてくださる方であると同時に、絶対他者である方であります。私たちがどうあがいてもこれに太刀打ちできない、神の主権の下で働かれる絶対他者。これが我々の信じる神であるのです。その意味において、カインの献げ物を喜ばれなかったことは、神の下に正しく、私たちはそれを受け入れる民でしかありえないのです。その意味で、今日の箇所に対して私たちは、神様の行いの正しさや真偽を問うのではなく、絶対者である神様のなさった答えに対してカインがどう答えたのか、このことが重要になってくるのです。

 自分の献げ物に目を留められなかったカインに対して、6節で主は言われます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しくないなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」。このように言われました。難しい表現ですのでこれを意訳するとこうなります。「良心にやましいことがなければ、落胆する必要はない。もしやましいことがあるなら、現在の自然な感情を、自分でコントロールせよ。野放しにされた感情は、あなたを罪へと巻き込んでいく」。このようになります。
つまりここでカインの中にやましさがあったと受け取ることも出来ます。カインの献げ物には心が無かった。神様への最も良いものを献げるという信仰がなかった。だからカインは感情を野放しにする方を選んだのではないでしょうか。

 最初の人間の死は、自然死ではなく、殺人でありました。このことが人間を象徴している、皮肉と言う事もできましょう。カインの兄弟殺しについては、8節のみに記されています。どうやって声を掛け、どのあたりの野原に連れて行き、何によって殺したのか、などの詳細な描写は省かれています。つまり最初に申し上げましたが、ここで重要なのは、カインの殺人それ自体ではなく、彼の罪に至る心なのです。

 9節~16節は「カインの裁判」と呼んでいる注解者がおりました。「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と主は呼ばれました。しかしこれは本当にどこにいるのか分からなくて言ったのではなく、カインが自分の罪にどう向き合い、どう悔い改めていくかを促す言葉と捉えてよいと思います。

 カインは結果的に、さまよい人として追放されることになりました。アダムとエバがエデンから追放されたことも記憶に新しいのに、その長男が次男を殺し、同じく追放されてしまうわけです。これが人間の現実だと聖書は言います。林嗣夫先生は、この追放されたカインを「選びの民から外されたという意味で最初の異邦人である」と言っています。面白い解釈であると思いつつ、それもまた事実であるとも思います。しかしこの異邦人となったカインのために、神様はどうなさったでしょうか。選びの民から外れた、罪を犯した、しかも殺人という神の似姿としての人間を殺すという罪の最たるものを見せ付けられる出来事に対して、神のなさり方は、私たちの想像を遥かに超えるものとなりました。

 すなわちこうです。13節「カインは主に言った『私の罪は重すぎて負い切れません。今日あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会うものは誰であれ、私を殺すでしょう。』主はカインに言われた。『いや、それゆえカインを殺す者は誰であれ、7倍の復讐を受けるであろう』。主はカインに出会う者が誰も彼を打つ事の無いように、カインにしるしをつけられた」。このうに神様は宣言なさいます。神様は、兄弟と和解をせず、一方的に殺すという行為に走ったこの一人の人間を、手放さなしませんでした。混乱の状態の中にあるカインをも主はお招きになります。神は彼に安全の保証としてのしるしを与え、遠く離れた場所においても祝福を受けることを確認させるのです。最後に旧約学者のブルッグマンの言葉を引用して終わりたいと思います。「聖書の信仰は明快である。兄弟に対する粗暴な振る舞いは、死に値する行為である。しかしそれにもかかわらず、生きる事を求める神の御旨は、死の判決を受けた者に対しても働いている。~神は殺人を犯す者に対しても関心を失っておらず、彼について諦めておられないことを告げているのである」(現代聖書注解「創世記」)。