聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記7章1節-24節

祈祷会奨励 創世記7章1節-24節 2010年6月17日
 ノアの物語の第2回目です。今日は創世記7章から御言葉に聞きたいと思います。まず前回のおさらいをしたいと思います。前回は「ノアが神に従う無垢な人であったから救われたのではない」と言いました。つまり彼の正しさと正義が彼を救ったのではない、ということです。これに対して、少なからず疑問が起こっているような雰囲気がありましたので、もう少し説明を加えたいと思います。
 J.C.L.ギブソンという旧約学者が、端的に語っているのがありましたのでご紹介します。
「ノアについて言うならば、ノアがちょっとした聖人君子で、彼が救われたのは彼が善であり彼の時代の人々が悪であったからだと思わされるかもしれない。ノアにはとがめられるべきことは何もなかった。あるいは英語訳のように『完全であった』。しかしノアに用いられた他の言葉は、ヘブル語では正しい行動、というよりもむしろ正しい態度、というニュアンスを帯びている。謎めいているエノクのように、ノアは『神と共に歩んだ』。ノアは神の側を選んだ。そしてノアは正しかった。この聖書の好む、『正しい』という言葉は、『自分自身を他人より良いと考える人ではなく、神と共にいて正しさの中におり、神がその人に対して正しい態度を取る人』を示す」
 このように書かれていました。つまりノアが正しい行いをしたからその行ないが彼を救った、というように「行い」や「行為」をダイレクトに救いに結びつけてしまっては「功なくして罪の赦しを得」「功績なしに罪が赦され」という信仰箇条の告白は意味を成さないものになってしまいます。私たちに与えられる救いは、功徳を積んでいく結果にもたらされるものではないことを覚えておきたいものです。勿論、神の下に自らを律して生きることは非常に大切なことです。それは神によって変えられる信仰者の姿であると言えます。それ自体の素晴らしさを認めた上でのことというわけですので、間違わないようにしたいところです。
 さて、このようなノアですが、7章からいよいよ箱舟への乗船と、洪水の開始が語られます。この7章を目を凝らして読んでみますと、幾つかの矛盾点にお気づきになるかと思います。まず、雨の降り続いた日は何日かということです。12節では「40日40夜」と言われておりますし、17節でも同じく「洪水は40日間地上を覆った」と書かれております。けれども24節には「水は150日の間、地上で勢いを失わなかった」とありますから、ここに矛盾が生ずるわけです。
 そしてもう一つは、箱舟に乗せる動物の数です。2節には「清い動物を全て7つがい、清くない動物をすべて1つがいずつ取りなさい」と書かれているのに対して、8節以下では「清い動物も清くない動物も、~すべて2つずつ」と書かれているのです。この大きな矛盾に関して、疑問を持つのではないかと思うわけです。
 結論から申しますと、再三申し上げているように、これはJ文書とP文書の、資料の違いという事です。「40日40夜と7つがい」の方がJ文書、「150日と2つずつ」の方がP文書ということになります。これが編み込みのように編纂されて、今のノア物語が形成されているのです。 
 しかしこのように一見矛盾することであっても、実はそうではない、という解釈もなされております。月本昭男という旧約学者が言っているのですが、P文書は全体を1年間の時間の枠組みの中に収めている、という見解です。つまり40日間雨が降り続き、150日間水がみなぎり、150日かけて水が引きます。そして最初の鳩を放って泊まるところがないので戻ってきますが、7日後にもう一度鳩を放ちます。オリーブの枝を持ってきたのを大地が乾いた徴として受け取り、それから7日間待ってから舟の扉を開ける、という経緯になっています。つまり40日+150日+150日+7日+7日=354日ということになりますが、これは当時の太陰暦の1年間とほぼ同じである、と月本氏は言います。
 また、ついの数に関しては、色々な見解があるわけですが、林嗣夫先生の「創世記」という本には(青少年のための聖書の学び「創世記」日キ教育委員会)次のように書かれております。’「~けれどもそういう役に立つ生き物だけでなく、神様はすべての生き物を一つがいずつ箱舟に入れ、絶えてしまわないようになさいました。その中には~いない方がいいと思われる~動物もいたでしょう。それでもノアは自分で勝手な判断をしないで、神様のご命令に従いました。勿論神様は人間に判断力を与え、それを使ってよい判断をするように導いてくださいます。しかし、ある時には、我々の常識をも判断をも超える命令を下されます」‘。このように書かれていました。つまり人間が正しいと判断することがいつも正しいわけではなく、心が罪に傾いている我々は、常に神様の御心に問い続けていかなければならないのだということです。「正しい人はいない、一人もいない」「善を行う者はいない。ただの一人もいない」(ローマ書3章10節)と言われているとおりです。
 さて今日の箇所7章の中から二つの言葉に注目してみたいと思います。
 まず一つ目は、’「ノアたちが箱舟に乗り込んだ後、箱舟は水のおもてを漂った」‘という18節の言葉です。この「漂った」という言葉の中には、主体がノア(つまり人間)の側にあるのではなく、神の側にあるということが示されています。この箱舟の漂流が意味することは、一切を神様に委ねていたということ。動力もなく、舵もない、ただ神の言葉によってその命令の中で、生きるも死ぬるもただ主にのみぞある、という事に身を置いて委ねる姿がここにあります。ここにノアが無垢だという所以があるのではないでしょうか。イエス・キリストは、神の国はこのような者たちのものである、と言って知恵も知識も、社会的な名誉もない小さな子どもを示しました。それは神が言われた通りに純粋に事を理解し、その通りに行なう、無垢なノアの姿を思い起こさせます。
 そして二つ目は、11節にある’「この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」‘という言葉です。この「大いなる深淵」という言葉は、実は天地創造の場面に出てきました。1章2節’「地は混沌であって、闇が深淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを動いていた」‘。そして1章7節’「神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた」‘。つまりイメージとしては、水を真中から分けて上と下にギュッと押し込んで、押しとどめて、今もそれを制御している、ということです。もし神が
この押さえつけている手を外されたらどうなるのか。天地創造の時の混沌の状態、無秩序の中に飲み込まれてしまうというのです。原初に起こった状況はもう起こらないのではなく、神が制御をやめたとき、もう一度混沌が訪れる、ということです。つまり混沌という状況は、神の天地創造によって無くなったのではなく、神様が制御をやめればまた元に戻ってしまう、ということなのです。
 これは重要な神学的概念でして「継続的創造」(Creatio Continua)と言われています。私たちは神様の天地創造の箇所を読むとき、一度限りの出来事としてこれを読むのではないかと思います。つまり天地創造はもはや過去の出来事、私たちの生活に直接関係のない事柄であると考えてしまいがちなのです。しかし聖書は「そうではない」と言います。聖書は、神が現在も創造活動を継続されているということを語るのです。この継続的創造活動があればこそ、この世の中は天地創造以前にあった混沌の中に飲み込まれてしまうことがなく、私たちの世界は継続され、維持されているということなのです。
 ではこの世界で私たちはどう生きればよいのか。神様が継続され、未だ創造活動の中にあるこの世に対してどう生きればよいのだろうか、これを喚起し、問題提起を促しているのがこのノアの箱舟の物語であるように感じます。
 先週も言いましたが、メソポタミアなどの周辺諸国の類似の箱舟物語では、地上に人間が増えすぎてしまったために天上の神々が落ち着いて静かに過ごすことが出来なくなったため間引きしてしまおう、というのが洪水の原因でありました。しかし聖書は「人間の罪ゆえにである」とはっきりと述べます。また、6章1節-4節のネフィリム伝承が語るように、当時の王権に対する批判、体制批判がここに示されているわけです。このような世の中にし、人を人とも思わずに一部の人が世の中を牛耳っているこの世界に対して、神の御心が現されるように、という祈りがここに込められているのだと思います。
 ノアはアダムが死んだ後、初めて生まれた人ですから、言うならば、第二のアダムとして、人間の過ちが繰り返されるのではなく、善悪の木の実に手をかけることなく、神の命令に無垢に従って生きる生き方が現されているのです。これを読む我々は、果たしてどう生きればよいのでしょうか。単純にノアのように無垢に生きなさいということではなく、この世の中で、神の継続的創造活動に参与すること、関わることとは、現在の私たちにとって何を表しているのか。それは信仰者一人ひとりに与えられた、それぞれの生活の座において与えられる課題ではないでしょうか。そのことを今日の箇所から改めさせられます。