キリスト教入門の会

「キリスト教入門の会」
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  担当は三浦勇二長老  午前9:45~10:15
     

ルカによる福音書22章35節-38節 『平和の剣を備えなさい』 2010年6月20日

ルカによる福音書22章35節-38節
『平和の剣を備えなさい』‘ ’(特別伝道礼拝説教)

日本人に初めてキリスト教を伝えたのはイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルでありますが、彼らが伝道した当時の日本は戦国時代の最中にあり、時の権力者織田信長の下に庇護を受け、順調に宣教活動を行っていきます。当時のクリスチャン人口は50万人とも80万人とも言われ、全人口の割合としては、2~3%ものクリスチャンがいたと推定されています。つまり、日本においてキリスト教が最も栄えた時代であるといえます。 信長がキリスト教を保護した理由については諸説あるにせよ、日本のキリスト教にとっては良い時代であったことには間違いありません。

 けれども、豊臣秀吉が政権を奪い、それまで保護されていたクリスチャンたちは一転して受難の時を迎えます。1587年、「伴天連追放令」が発布され、キリシタンたちは弾圧されるわけです。それまで全国各地で敬われ、歓迎され、親切にもてなされていた宣教師たちは、一転して禁教令政策の槍玉に挙げられたのであります。それは手のひらを返すような出来事であり、全く違う時が訪れた瞬間でもあったわけです。徳川家光の時代には、「寺請け制度」によって、全ての日本人が仏教徒として登録されました。また踏み絵による「キリシタン狩り」も行われました。1639年以降は、後に「鎖国」と呼ばれるようになりますが、外国との貿易を徹底的に制限する政策が取られていくわけです。そこからキリシタン弾圧がさらに激しくなっていくことは歴史が証言している通りであります。

 かつては受け入れられる時代があり、それが一変してしまう。その中にあって、当時のキリシタンたちは、所謂「カクレ・キリシタン」と呼ばれる、地下組織的な信仰の継承を余儀なくされていきます。それは信仰というものが、国家や権力などに左右されやすく、それによって状況が如何様にも変わり得ることの最たる出来事でありました。それまでは町の人々に歓迎され、敬われ、親切にもてなされていた宣教師たちに、今や全く異なる時代が訪れたことを知らせる瞬間でありました。
 
 さて、今日の箇所を見てみましょう。35節’「それからイエスは使徒たちに言われた。『財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか』。彼らが、『いいえ、何もありませんでした』と言うと」‘と、このように言われています。弟子たちはかつて受け入れられた状況にありました。ルカ福音書9章1節を見てみますと、12人の弟子たちが宣教のために派遣されたことが記されております。9章3節にはこのように書かれています。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」このように言われておりました。それは当時の町の人々が、弟子たちの携える宣教の言葉に耳を傾ける時代であったことが分かります。それはちょうど「日本におけるキリスト教の世紀」と呼ばれた時代のように、宣教する者は歓迎され、敬われ、親しい交わりに預かっていたのであります。

 けれども今日の箇所で主イエスは言います。36節’「イエスは言われた。『しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが「その人は犯罪人の一人に数えられた」‘と書かれていることは、私の身に必ず実現する。私に関わることは実現するからである』」。かつては受け入れられた時代があった。しかし今は全く違う時が訪れようとしている。このことを主イエスはおっしゃるのであります。それは国家において権力を持つものが、福音を保護するか否かによっているのです。どのような状況であれ、国家がこれを保護する時は、民衆もこれを歓迎する。しかし政治的権力を持つものがこれに睨みを利かせ、弾圧しようと目論むなら、信仰共同体はひとたまりもなく弱者へと変わっていってしまうのであります。それがこの時の主イエスの状況であり、弟子たちを取り囲む状況であったのです。

 今日の箇所は「それに対して備えをせよ」という主イエスの勧告であります。’『しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい』。‘このようにイエス様はおっしゃいます。これまでは皆、歓迎されてきた。けれども今は全く違う状況になった。ということであります。
この36節を読む限りにおいては、’「財布を持っていくこと」「袋を持っていくこと」「剣を備えること」‘の3つが’「備えるべきもの」‘として要求されているように感じます。しかし正確には、こういう文章です「持っている人は財布を取りなさい。袋も同じように。財布を持っていない人は服を売りなさい。そしてその代金で『剣を買いなさい』」、こういう意味であります。つまりこれらの行動の目的は’「剣を準備すること」‘に掛かっている言葉であるのです。

それに対して弟子たちの用意は周到でした。38節’「そこで彼らが『主よ、剣なら、この通りここに二振りあります』と言うと、イエスは『それでよい』と言われた」‘このようにあります。弟子たちは主イエスから要求されるであろう剣の用意を既にしていたのです。これまで間違いばかりの弟子たちでありましたが、最後の最後で主イエスの要求を前もって知ることが出来た、そのように読み取ることが出来るでしょう。イエス様に対して無理解であった弟子たちも、ようやく弟子としての役目を果たすことが出来た。良かったよかった、ということであります。

しかし、本当にそうなのでしょうか。日本語の聖書、とりわけ口語訳や新共同訳聖書では、イエス様のお答えになった’「それでよい」‘の言葉の意味が曖昧でありますから、弟子たちの行為を肯定しているように受け取ることが出来ます。しかし他の訳文を見てみますと、この言葉の意味が良く分かります。岩波訳の聖書ではここを’「それで十分なのか?」‘と訳します。またミュンデルという注解者は’「もうたくさんだ」‘と訳し、F.B.クラドックという注解者は’「この話はもう充分だ。この話題はここまででやめよう」‘。と意訳しています。つまり弟子たちはイエス様の真意を汲み取って二振りの剣を用意していたのではなく、この期に及んでも、やはり弟子たちは無理解だった、ということが示されて
いる、そのような主イエスの言葉なのであります。
「剣を備える」‘ということは何を意味するのでしょうか。剣とは、言わずと知れた「戦いの道具」であり「戦争の象徴」であります。それを準備するということは、弟子たちに臨戦態勢に入りなさい、という要求に他なりません。しかしこれまでイエス様の教えの中に、「戦争に備えなさい」というものはありませんでした。「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」と言われましたが、決して「右の分もやり返しなさい」とは言われませんでした。「上着を取られたら下着をも差し出しなさい」と言われましたが、「上着の分も仕返ししなさい」とは言われませんでした。つまり、イエス様の福音には、愛の教えはあっても、憎しみの教えはない。攻撃や暴力の教えはないということであります。ですからここで「剣を用意しなさい」と言われているのは、実際の剣のことではなく、何かを譬えて語られているに相違ないと思うのです。

 私が感銘を受けた本の一つ、ウォルター・ウィンクという神学者が著した’『イエスと非暴力 第三の道』‘という本があります。その中で、一般的に悪に対する対処法は、人間の歴史上、二種類あると言われています。一つ目は無抵抗(すなわち悪を受け入れて為されるがままに任せること)。二つ目は暴力的対抗(暴力に対して暴力を持って対抗するということ)。であります。そして人間の歴史が私たちに提示してきたのは、「逃げるか戦うか」という2択だけであったというのです。しかしイエス・キリストは、この選択肢とは全く接点を持たない第3の道を示された。積極的に悪に立ち向かい、それでいて暴力を用いない戦い方、それこそが’「非暴力的闘争」‘という道であった、と言うのです。

 ルカ福音書22章50節で、弟子たちは、主イエスが連行されそうになったとき、大祭司の手下に向かって「その右の耳を切り落とした」と書かれております。つまり第二の道である「暴力的対抗」であります。しかし一転して、大祭司の中庭でペトロに嫌疑が掛けられたとき、「私はあの人を知らない」と三度に渡って主イエスとの関係を否定したのです。つまり第一の道である、「無抵抗」「逃げる」という対処の仕方であります。

 では第三の道とはどういう道でしょうか。単に耐え忍ぶという道でもなく、無我の境地に立つ、という道でもありません。インド独立運動の立役者マハトマ・ガンジーは、主イエスの非暴力に感銘を受けて自らそれを実践したといわれますが、彼は非暴力の道を次のように言い表しました。
「武器を取る勇気のない者や、自分は暴力を用いる抵抗運動はできないと考える者は、非暴力運動はできない。非暴力は、死ぬことを恐れるような者や抵抗する力を持たない者には教えることが出来ないものである」「非暴力においては、かつて自分がそれに熟練していた武器よりも、はるかに勝る、非暴力の力を身につけたと実感できない限り、その者は非暴力とは何の関係もない者でしかなく、結局は武器に戻ってしまうだろう」‘。
 このように言いました。すなわちガンジーは、主イエスの言葉の真意を汲み取ってこのように言ったのであります。「剣のない者は服を売ってでもそれを用意しなさい」という主イエスの言葉は、自らが十字架に向かうという予告であるばかりでなく、弟子たちに戦う勇気があるか、と問う信仰の告白を求める言葉に他ならないのであります。「私がこれから追うべき十字架を、あなたも負う勇気があるか。確かに今の状況は、歓迎された、喜ばしいものではない。迫害を受けつつあるかもしれない。しかしその中で、悪に対して、悪に立ち向かう気概を持ち、剣ではなく、剣よりもはるかにまさる剣を持って戦う意思があるか」、と、弟子たちにそして私たちに問うているのであります。

 剣に勝る剣、それこそが福音に他なりません。その剣を、服を売り払ってでも買いなさい、用意しなさいと主は言われます。服とは必需品のことであります。なくてはならない、なくなったら困る、大切なもの。しかしそれを売り払ってでも、つまり自分がこれまで大切にしてきた全ての物や事柄を捨て去ってでも、剣に勝る剣を準備しなさい。といわれているのです。
 キリストの福音とは、「神の愛の力」であります。その福音をもって、自分に悪を行う者に対して、愛を行えるか。自分を罵倒し、迫害する者に対して、愛を行えるか。そのことを弟子たちに、そして私たち迫っているのであります。「平和の剣を備えなさい」主はそうおっしゃいます。それはあなたのうちに、第三の道である、福音による剣が備わっているか、ということであります。敵を愛すること、自分を憎む者を赦すことは決して容易いことではありません。しかしイエス・キリストの十字架が私たちの前に聳え立つのであるならば、それを私たちの平和の剣として、愛しうる者となれるのであります。悪に対し、逃げることではなく、暴力によってでもなく、ただ只管に第三の道である、福音を力とする道に突き進みたいのであります。この世の中は混沌としています。暴力も悪も絶えることがありません。しかしキリストの福音に聞き従うことが出来るならば、この世に愛の実を実らせることが出来るのであります。平和の剣を備えなさい。このキリストの要求に、従ってまいりたいと思うものであります。