聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記12章10節~20節

創世記12章10節-20節 2010年7月22日
 信仰の父と呼ばれるアブラハム(この当時はまだアブラム)ですが、この箇所では大変な試練のときをを迎えています。10節に「その地方に飢饉があった」とあるように、約束の地カナンは、何もかもが満たされた裕福な場所なのではなく、飢饉が起こり人が生きる事をも妨げられる土地でもあることが示されています。
 この時アブラハムは本当の意味で信仰の試練を受けていたのです。彼らがウルを出てハランを経由し、カナンに向かって行ったあの旅路を考えるとき、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とヘブル書11章1節で言われているあの従い方こそが信仰の本質であるように思えてしまうのですが、しかしこの時のアブラハムこそが本来の意味で信仰の問題が本格化していたと言えるのではないでしょうか。
 創世記は、彼はが信仰を傾けて熱心に神に呼ばわっても、飢饉を乗り切ることができないという現実に直面させられる状況を描きます。このような非情な現実の前では、優しさとか、人情とかは全く意味を持たず、私たちは現実の中に生きることに身も心もすり減らすのであります。このような非常な現実に直面したアブラハムは何と惨めな存在でありましょうか。このとき彼は信仰の父ではなく、弱々しく頼りない惨めな一人の信仰者でしかなかったのです。
 アブラハムの事情は複雑でした。彼はカナンという約束の地を示されましたけれども(12章1-4節)、「この地を与える」という主の御言葉にすがってここに踏みとどまるならば、飢えて死ぬしかありませんでした。創世記12章2節以下の「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」という祝福の約束が吹き飛んでしまうかのように、彼の現実はあまりにも苛酷であったのです。アブラハムにとってこの飢饉は試練ではなく、信仰の躓きであったことでしょう。神の言葉と現実、神の祝福と実際の飢饉、この狭間に立たされた彼は、信仰を揺さぶられる中を生きていたのであろうと思います。
 この飢饉を乗り切るために彼はエジプトに下ることを余儀なくされます。エジプトというのは、ご承知の通り、ナイル川の肥沃なデルタ地帯にあり農業が発達していました。周辺諸国のような砂漠ではなく、定期的に静かに氾濫するナイル川は多くの恵みをもたらしました。ですからエジプトには殆ど飢饉がなく、いつも豊かな収穫に恵まれていました。ですから周辺の人々は飢饉になるとエジプトに流れ込み、食料にありついて命を保ってきたと言います。アブラハムも同様に、エジプトに流れ込んできたのであります。
 
 さて私たちが今日の箇所でもっとも腑に落ちず、嫌悪感と共に読む箇所は、続き11節から13節の言葉ではないかと思います。このアブラハムの言葉の中に、彼の人間としての浅ましさと強かさ、そして自分の命を救いたいと思う利己的な思いが看取されます。そして私たちはこのアブラハムの行いに絶句し、「妻を売るとは何ごとか」「妻を出しにして利益を得るとは何ごとか」と憤慨してしまうのであります。
 
 しかしアブラハムの立場になって考えてみると、彼の命はこのとき危険に晒されたのです。美しい人妻を見ると、その夫を殺して妻を自分のものにするということは、当時の権力者がしげく行なった罪であり、あのダビデ王でさえも同じようにウリヤの妻を自分のものにしている通りです。ですからその命の危険から免れるためにこのように嘘を言ってくれといったのであろうと思います。それが12節に記された言葉の意味であります。
 しかし同時に彼は「あなたのゆえに幸いになり」と言われておりますから、サラが召し入れられ宮廷から多くのご褒美を受け取ることが前提となってこのように嘘を言わせたと考えることも出来るわけです。
 そして妻のサラはファラオに召し入れられます。彼女は絶世の美女であったようですから、その美しさゆえにファラオの家臣の目にとまり早速宮廷に召し抱えられるのです。サラの待遇は恐らく側室であったでしょうから、労働による賃金や、身売りによって得る金銭とは全く違う、破格の財産を手にすることになります。実際アブラハムは16節で「彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた」とあるように、多くの財産をサラの対価として受け取ることになったのです。
 ここまでの筋書きをアブラハムが仕組んだものであるのかどうかは分かりませんけれども、少なくとも彼は、自分自身を救うためにサラを危険に晒し、そのことを厭わなかったという事だけは確かであろうと思います。ではこの事実を私たちは、信仰の父としてのアブラハムから何を読み取ればよいのか。このことが問題になってまいります。
 
 しかし良くこの箇所を読んでみますとき、本当にアブラハムがそこまで強か(したたか)に、サラの美貌を釣り餌にして宮廷から財産を受け取ろうとしていたのでしょうか。彼は嘘をつき、サラを自分の妹であるとしたことは確かです。命ごいのために嘘をついたという事実は確かなのです。
 彼は、妻サラが召し入れられるというところまでは想定していたのかどうかは分かりません。むしろ彼の中でそれは想定外のハプニングであったのかも知れないのです。そこまで浅ましく考えておらず、単に命を奪われないようにということで夫婦間で申し合わせをしていただけかもしれません。しかし自体は急変し、サラは召し入れられてしまいます。「『妹です』と言ったのは嘘でした」などというと、間違いなく処罰されると思い、取り返しのつかない事態となったことに彼は悶々とした日を過ごしていたのかもしれません。サラが召し入れられてから解放されるまでが何日ほどであったのか分かりません。それは推測の域を超えないのですが、数日・数週間ではないだろうと思います。もしかすると飢饉がなくなるまでとすれば、数年間ここに滞在していたとも考えられます。その間アブラハムの気持ちを考えると、逆にいたたまれない思いになってしまいます。自分は町にいて、それまで連れ添っていたサラが宮廷の中でファラオの妻、側室となっている。確かにあの時は大飢饉が襲い、何でも良いからどんな手を使ってでも良いから食糧を得ようと思っていた。そして首尾よくそれが適った。しかも妻のサラは宮廷に入り込み、多くの
財産分与を得ている。生活としては何も不自由もないし、あの時自分が望んでいたことに近いのかもしれない。しかし、しかしそれは取り返しのつかない事態であったと。
 妻の身代金を受けることによって一家が存続することのみを考えていた彼は、しかし自分のはらわたの断ち切られるような思いを払拭することのできない数ヶ月もしくは数年間を過ごしてしまったのでありましょう。あの時はそうだった。あの時はそう生きる事が自分のためであると信じていた。しかしそれは過ちであった。取り返しのつかない過ちに身を投じてしまった。このようにアブラハムが悶々と苦しみ、耐え難い痛みを負っていたとするならば、これは私たちにも身に覚えのある苦しみなのではないでしょうか。あの時はそうだった。だから人を欺いた。その欺きと嘘によって起こした今がある。それはかき消すことは出来ない。このことは私たちが信仰者として生きることにおいて度々起こることであります。
 しかしそのような状況の中で、「ところが主は」(17節)彼らを救い出すのです。過ちに身を投じた彼を救うのです。恐らく疫病が流行したのでしょう。どういう経緯でなのか分かりませんがその疫病がサラの事であると判明した。ファラオは人の妻を娶ってしまったという罪が疫病の原因であると悟り、サラを解放したというのです。
 アブラハムは、自分の生き延びることだけをはかって妻を切り離しました。しかしその事は彼を後悔しつくしてもし尽くせないほどの痛みに変えました。彼はその不運を自分の責めとし、諦めようとしていたのではないかと思うのです。もうこうなってしまった以上、どうすることも出来ない。これが彼の中にあった諦めの思いであったと思うのです。しかし神は「ところが主は、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気に罹らせた」。これが主の解決でありました。「人間の弱さと利己心のために犯した罪」「心の邪悪さのためにしでかした事件」「自ら収束させるには絶望的に無力である事態」でありました。しかし神はこの絶望的状況に終止符を打つように「神が立ち上がり、神が乗り出してこられた」のです。
 この箇所は夫婦の生き方あり方を示す教訓物語ではありません。また神さまは最後にはハッピーエンドをもたらして下さる、という甘く単純な期待を神に掛けてよいというお話でもありません。アブラハムの試練は自らの無力と虚無の最たるものであったことでしょう。サラの試練もそれを上回るものがあったかもしれません。しかし私たちは自分自分と、自分の心の内、自分たちの状況の中に目を留め続けることの中にではなく、一筋に神に向き直って生きることの中に、信仰の歩みが備わっているということなのであります。「結果的に神さまのなさることは良かった」ということがメッセージなのではありません。莫大な財産を得て妻と一緒にエジプトを出ることにはなりましたけれども、妻は一度ファラオの妻になってしまったこととそのわだかまりは、それが本当に神の恵みと言えるのか、と思ってしまいますが、人間がどう思ったとしても、人間の目にはどう映ろうとも、それが神さまの示した結論なのだ。それが神さまの与えられた人生なのだ、という事を、私たちは信仰によって受け入れていく、それこそが信仰者に与えられた人生なのではないかと思うのであります。苦しみがなくなることが人生の喜びではなく、苦しみをどう受け入れられていくかが、神に与えられた人生の恵みなのであります。
 
 そしてこの箇所の通奏低音として流れているのが、12章1節~4節の約束、であります。「~わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように~」。アブラハムたちは、如何なる状況に遭遇しても、この祝福から離されることはなかったのです。罪も咎も、その全てをひっくるめて、彼らは神の祝福の下で、生かされた信仰者であったのです。