8月14日の礼拝

 (午前)「敗戦記念日礼拝」

 礼 拝:8月14日(日) 10時30分~11時30分

 説教題:「何を信用するのか。誰を信用するのか」

 聖 書: 使徒言行録27章1節-12節

 説教者: 三輪地塩 (浦和教会牧師)


 (午後)「敗戦記念日集会」

 講演会:  同日      12時30分~14時00分(予定)

 講演題:「平和の実現に向けて」

 講 師:大嶋果織 氏

 講師プロフィール
    :日本キリスト教協議会教育部総主事
     日本基督教団教務教師
     ルーテル学院大学。日本聖書神学校等にて教鞭を取る(キリスト教教育)。

8月7日の礼拝

 「子どもとおとなの合同礼拝」(聖餐式)

 日 時:8月7日(日) 10時30分~11時30分

 説教題:「モーセの誕生」

 聖 書: 出エジプト記2章1節-10節

 説教者: 三輪地塩 (浦和教会牧師)

出エジプト記2章1節-10節 (子どもとおとなの合同礼拝) 『モーセの誕生』

出エジプト記2章1節-10節(子どもとおとなの合同礼拝) 『モーセの誕生』

 先週の火曜日、日曜学校の子どもとおとな総勢20名によって、夏期学校が開かれました。東日本大震災や福島原発の問題等の事を勘案して、一泊ではなく日帰りの一日夏期学校となりました。少し物足りなかったかもしれませんが、充実した楽しい一日を過ごすことができました。テーマは「サムソン物語」でした。士師記に出てくる大士師サムソンの生涯を辿って、聖書のお話、紙芝居作り、オリエンテーリングといった、盛りだくさんのスケジュールで行われました。
 その中でのサプライズは、出産のために暫くお休みしている、加藤先生が、一ヶ月検診の帰りに教会い立ち寄ってくれたことでした。小さな命が与えられる嬉しさ、命の輝きの素晴らしさを共にすることができ、本当に嬉しい時がもてました。赤ちゃんが生まれることは、その後にある成長を期待し、将来の希望をもたらすということです。夏期学校のテーマであった「サムソン」が誕生した時も、希望と共に生まれてきたことを共に学びました。

 サムソンの父マノアと母は、子が出来ずに苦しんでいました。その中で天の御使いが現れて、子が生まれることを宣言したのです。イエス様の誕生と同じような、驚くような仕方で、天使の宣言通りにサムソンは生まれたのでした。彼はナジル人として、つまり神様に約束された、聖別された人として生まれました。彼は髪の毛を剃らなければ大きな力を出し続けることが出来る、と約束された者として成長しました。サムソンは素手でライオンを引き裂いたり、ロバの顎の骨で1000人のペリシテ人を倒したりと、それは凄い力を与えられた若者として成長したのでした。

 このようなサムソンの話がありましたが、今日の箇所でも、今度もまた小さな赤ちゃんが生まれています。今度の赤ちゃんはどんな若者に成長するように約束されたのでしょうか。サムソンのような屈強な戦士として成長するのか、それとも心優しい穏やかな人として生きることを予定されていたのでしょうか。またモーセの父と母はこの子供が生まれた時にどのような希望を持っていたのでしょうか。

 今読んだ聖書の箇所だけではよく分からないかもしれませんので、その前のところも読みたいと思います。1章7節~10節「イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。そのころ、ヨセフの事を知らない新しい王が出て、エジプトを支配し、国民に警告した。イスラエル人と言う民は、今や、我々にとってあまりに数が多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。」そして22節「ファラオは全国民に命じた。『生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め。女の子は皆、生かしておけ』。」

 このように書かれています。つまりイスラエル人の男の子が生まれたら全て殺してしまえ、という命令が出されたということです。ですからモーセが生まれたときは、希望に満ちた、将来を約束された状況なのではなく、むしろその正反対であり、希望ではなく絶望、生きることではなく死ぬことが目の前に広がっており、サムソンのような約束されたナジル人として力を振るうどころの話ではなく、生まれたらすぐに殺されてしまう状況の中で、この小さな存在を今にも押し潰してしまおうという力に取り囲まれていたのでした。天使の力ではなく悪の力が幼子モーセを覆っていたのです。1章16節にはこうあります。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子なら殺し、女の子ならば生かしておけ」。そしてモーセは男の子だったのです。
 
 ナイル川は繁栄と豊穣の象徴です。栄えることと、たくさんの作物が取れる場所です。けれどもこの場所に「男の子を放り込め」と命じられたのです。そして多くのイスラエル人の男の子が命を失いました。沢山の尊い命が奪われたのです。しかしそれがファラオの行ったことでした。増えて脅威になるから殺してしまおう。邪魔だから捨ててしまえ。それが権力者の罪であり、ひいては私たち人間の罪であるのです。
 繁栄と豊穣の徴であるナイルは、今や、死と、絶望の徴となったのです。そもそもナイル川は、一年に一度は氾濫し、人間の手の付けられない力で水が押し寄せ、その力の中では人間はなす術なく漂うだけであるのです。まさに水の氾濫が押し寄せるかのように、幼子たちはひとたまりもなく命を落としていったのでした。

 そのことはモーセのお父さんお母さんを悩ませました。ようやく生まれた愛する子が、近いうちにエジプト人の兵士に見つかって、殺されてしまう。そのような死と破滅の中をさまよっていたのでありました。何とか3か月間は隠して育てたけれども、だんだん大きくなる子を隠しておくことが出来なかった。そこで彼らは考えました。パピルスという草を乾かしてそれを籠状に編み込んで小さな舟を作りました。それは生まれたばかりの赤ちゃんが一人だけ入れる小さな舟でした。そこに生後三か月の小さなモーセを入れてナイル川に流したのです。モーセにはお姉さんがいましたが、このお姉さんが流れる籠を追い掛けて、どうなっていくのかを密かに見守って着いて行きました。お父さんもお母さんも心配していたことでしょう。このパピルスの舟で流すことは、言ってみれば神様にその身を委ねたことを意味するでしょう。それはあのノアの箱舟が、動力も舵も何も持たずにその身を流れに委ねたように、モーセの家族にとってこのパピルスの舟はまさしく祈りだったのです。これからどうなるか分からない。どんな人に拾われるか分からない。もしかするとひどい人に拾われて、可哀そうなことになってしまうかもしれない。誰にも拾われなくて、本当にファラオの命令の通りナイル川に放り投げるだけのことになるかもしれない。それは分からないけれども、しかしその身を委ねたのでした。

 この時はファラオが国中を支配していました。しかしファラオの支配にではなく、神様の支配に任せたのです。それは簡単そうで実は大変難しい事です。サムソンのような約束のないところで、何も保証のないところで、幼子の身を預ける。それは信仰の大切な部分なのです。

 さて、この舟は誰に拾われたでしょうか。ここには「ファラオの王女」と書かれています。つまりファラオの奥さんです。王女はモーセを
見て可哀そうに思います。そこに幼子のお姉さんがやってきて、その子に乳を飲ませる乳母を連れてきます、と言ったところ、王女は「そうしておくれ」ということになり、この幼子は自分の母親に育てられることになったのでした。結果として、一度捨てる覚悟をした両親のもとに、この子は戻ってくることになったのです。
 神様の計らい。それは神様が最も必要なところに必要なことを与えてくれるという意味です。この時も、神様の計らいが、あたかも大きなうねりのように押し寄せて来たのです。

 拾われた男の子は、「引き上げた」という意味のヘブライ語「マーシャー」から、「モーセ」と名付けられることになりました。モーセは、ファラオの王女に拾われたのですから、「ラムセス」とか「トトメス」という名前を付けられて、エジプト人として生きることもあったかもしれません。しかしヘブル語名の「モーセ」が与えられたのでした。ここには、彼が誰に支配され、誰に従っていく人として成長するかが示されているのです。つまり国家権力者のもとに生き、ファラオの権力を大事にし、ファラオ的な権力を振るって生きる人生ではなく、そこから抜け出し、ファラオという人間のもたらす人間の支配から解放される生き方、ファラオから脱出する生き方を与えられたのです。

 最初にも言いました。ファラオとはここでは悪魔の力の象徴と言えるかもしれません。もちろん良いファラオもいると思いますし、ファラオも国民のために一生懸命政治をおこなったのかもしれません。しかしここでは、幼子を虐殺する象徴として、権力と支配の象徴として描かれています。それは私たちに逃れられない権力と、悪の力を思い起こさせます。大量虐殺。それは私たち人間の歴史の中で、幾度となく行われてきたものですし、私たち人間はそのような残忍な歴史を何度も刻んできました。
 
 昨日、8月6日は、広島に原子爆弾が投下されて14万人もの命が失われてから66年目に当たる日でした。原子爆弾はやめにしよう、平和な未来を築いていこう、と言うスローガンが立てられてから66年目のこの年、3分の2世紀が経ってこの記念日を迎えたのです。しかし今度は、原子爆弾の理論を平和利用しようとした結果、人間の犯した大きな災害が起こっていることも併せて覚えたいのです。私たちはその現実から逃れ得ないのです。原爆は悪であり、原発は善である、とアピールしてきたこの国のどこかに、ファラオ的な支配の臭いが漂っているようにも感じられます。そして私たちは1発で10万人以上もの死者を出した原爆を嘆く一方で、その原理を「平和利用」と称して、その恩恵に与っているのも又私たち自身であるという矛盾に気付かされるのです。

 ファラオの大量殺戮と言う出来事は、ファラオの側の言い分では間違ったことなのではないと言えるのかもしれません。ヘブライ人が力を持つとエジプト人が支配される恐れがある。だからこれが必要なのだ。それは政治的にはあり得る理由なのかもしれません。けれどもこれが意味することは、人間の善意や悪意を超えて、人間の手による業というものはそれ自体が限界性を持っている、ということであり、ファラオも、原爆も、原子力も、その証拠として、人間の業の結果として私たちの前に大きくたちはだかるのであります。

 しかし神様は、このモーセを救いました。絶望、死、殺戮、支配という言葉の只中で、神様は、この小さな幼子を救いました。そしてこの幼子モーセに隠された働きは、単にモーセ一人の命ではなく、何千何万というイスラエル人たちの救いにもなっていったということです。

 モーセは、自分の力によらず救われました。この幼子が出来ることは、ただパピルスの舟と川の流れに身を委ねること、それ以外には何もなかったのです。お父さんお母さんの愛があったかもしれません。何とかしたいと尽力したお姉さんの力の功績は大きかったかもしれません。たまたま偶然にファラオの王女がいた、と言う運命的なことを思うかもしれません。しかしそれらすべてが神様に身を委ねた祈りと神さまの計画の行わしめたものであるということです。その結果として、死と氾濫は、生と解放に向かうのです。奪われる命は生き返り、捨てられるはずの命は回復したのです。捨て入れられたナイル川から、拾い上げられる生命が広がり、諦めていた幼子が希望の徴に変わるのです。それが神様の計らいです。それが神様のなさる業です。人間が一生懸命にこれを抹殺しよう、放り込もうとしても、その人間の計画を断ち切り、神様は神様のご計画の中で、最も良い事をお与えになられる方なのです。
困難な時、苦しい時、神様への信頼を固くし、神様に身を委ねる信仰を、持ち続けたいと思います。

(日本キリスト教会浦和教会 2011年8月7日 主日礼拝説教)