使徒言行録28章1節-16節 『マルタ島にて』 2011年9月4日

 使徒言行録28章1節-16節 『マルタ島にて』

 3.11の東日本大震災が起きてから、来週でちょうど半年になります。この期間我々は多くのことを問い掛けられ、多くの事を考えさせられてまいりました。また信仰者という立場から、これが如何に承服しがたく、受け入れがたいものであったかを合わせて思わされてきました。東京の石原都知事が「これは我々日本人への天罰である」という発言をして、波紋を呼びました。この発言の良し悪しは別として、この天罰という考え方は、実に因果方法的であるなと感じさせられるものでありました。私たちは良く、「罰が当たる」という言葉を耳にします。この語源ははっきり致しませんが、恐らく仏教的なものがルーツになっていると言われています。それから、良い天気に恵まれた時などは「わたしは日ごろの行いが良いから」などと言う会話も聞こえてきます。とにかく日常用語的に私たちは、良い行いや良い人に対しては良い事が起き、その反対の人には悪いことが起こる、と考えられる傾向にあるわけです。ですからあの都知事をしてそのように言わしめたのは、まったく因果応報的な人間の価値感覚に由来するのであろうと思うのです。
 しかし一方で、このような因果応報の考え方は、肯定的に見るなら非常に純朴であるとも言えるのです。特にアイヌやイヌイットなどの土着の先住民族たちは、自然との因果関係の中で、アニミズム的な宗教観、つまり、動物や大木に神や精霊が宿ると考える信仰を持っていました。その中にある真理や、そこで発見される生命倫理を、キリスト教的ではない、という理由で排除することはできません。

 良い事に対して神は良い事を与え、悪い事をしたときには神は悪い事をその人に与える。これは一般的な感覚であり、また純粋、純朴な信仰の形なのでありましょう。今日の箇所で、パウロはマルタ島に着きます。この島は現在のイタリア領海内の小さな島でありますが、ここで出会ったマルタの人々はパウロと蝮の出来事を見て、彼への評価を180°変えているのであります。

 パウロがたき火に枝をくべようとすると一匹の蝮が彼の手に巻き付きました。それを見て現地の人たちは「あれは人殺しに違いない。だから蝮が巻き付いたのだ」「じきに死ぬことだろう」と言い合います。しかし全くパウロには全く変化が見られなかったため、今度は一転して「あの男は神様だ」と言ったのです。何とも純朴と言いましょうか、単純明快な判断と言えるわけです。

 しかし聖書にはこのようなことは多く描かれておりまして、有名なのはヨハネ福音書9章にあります。生まれつき目の見えない盲人に対して、弟子たちがイエスに対して「あの人の目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、両親ですか」と問う場面がありますが、まさにあの因果応報の原理は当時の一般的な感覚であったと言えます。

 この話が広がった後、今度はマルタ島の長官プブリウスの父親が赤痢を患った時、パウロの祈りと、手当てによって長官の父は回復したという奇跡について記されています。これを聞いた人々は、パウロの癒しの祈りを受けるために大勢やって来たというのです。

 この一連の癒しの物語でありますが、これらの出来事は何を意味するのでしょうか。一方では純朴とも言えるマルタ島の人々が、パウロを受け入れたことを記していると言えます。しかしもう一方では、目に見える出来事を信じ、それを神だと信じるという偶像的な危うさを見ることもできるわけです。この記述を私たちは肯定的にも、否定的にも受け取ることができます。

 しかし私たちが注目したいのは、このマルタの人々、2節で「島の住民」と書かれていますが、この「島の住民」という言葉は、バルバロイと言う言葉が使われているということです。バルバロイとは一般には「未開の人」とは「土着民」というような少々侮蔑的な言葉としてしばしば使われてきました。しかし実際はそうではなく、「非ギリシャ人」「非ローマ人」という意味で用いられてきたようであります。このバルバロイたちがパウロの奇跡を見てどうしたかと言いますと、「彼らは考えを変え『この人は神様だ』と言った」とあります。この「考えを変え」という言葉の中には「ものの見方、考え方を180°転換する」という意味が含まれます。しかも継続的に行われる転換ではなく、一回的に起こる転換、それは「回心」に近い転換がここで起こっているということです。聖書がここで語るのは、癒しの出来事によって島の住民たちがパウロに対する思いをコロコロと変えているとか、蔑んだ人を目に見えることで神に仕立て上げる、という否定的なものではなく、むしろこのようなバルバロイたち、つまりユダヤ人にも、ギリシャ人にも福音が伝えられる、という以上の異文化習慣の中に生きる者たちにも、神の福音が伝えられている、ということであります。勿論このような伝わり方は、福音伝道としては正統的ではないかもしれませんが、しかしフィリピ書で彼が「不純な動機であれ、何であれ、キリストが述べ伝えられているのですから私はそれを喜びます」と言っているように、このような場所においてもパウロの目的は一切変わっていないのです。むしろ彼はまったくブレることなく、むしろ神を伝えることで周囲を変化させているのであります。

 パウロの目的は皇帝への弁明でありますが、それは御言葉を宣べ伝えるという一点に尽きるわけです。どのような相手に対しても、ひるまず、ブレず、「神だ」と持ち上げられようと、「呪われた人殺しだ」と蔑まれても、彼の所に来て癒してもらう目的でわんさと大人々が集まってきても、パウロはそこで出来る神の表し方をその場で行えるように行っているのであります。神の言葉の伝え方を一切変えていないのです。使徒言行録がこれまで伝えてきたように、パウロが囚人として護送されても、そうなる前も、順調に伝道が進んでいた時期も、全く変わらず、同じようにしてきたのであります。つまりは「神の奉仕者」としての自分自身の姿勢をブレずに行ってきたのでありました。

 11節には「パウロの乗った船はディオクロイを船印とする船であった」とありますが、ギリシャの最高神ゼウスの双子の息子カストルとポルックスの事を「ディオクロイ」と言っているのであります。これは船の航行の安全祈願の神様とされていたため、船に装飾されていたわけです。つまりパ
ウロのローマへの旅は、全くの異教の地で起こる出来事でありました。しかし彼はその本質を変えませ。まったくブレないのです。彼は皇帝に上告さえしなければ、ローマに護送されることなどありませんでした。回避することは可能でしたが、しかし彼は、自分の務めから逃れようとしませんでした。どこに行っても、どのような状況でも、彼は神の僕であり、神の奉仕者であり続けたのです。

 私たちは信仰者として、神に守られている時も、そうでないと感じる苦しみに苛まれる時も、全く同じ神を見続けて、ブレずに、ひるまずに生きることが出来ているでしょうか。蔑まれると落ち込み、持ち上げられると有頂天になり、状況や環境の変化と共に私たちはひるみ、ブレて生きることが往々にしてあるのではないかと思うのです。状況の変化は、自分自身の中の目的をも変化させ、信仰の捉え方や、神への思いすらも、その時々によって変えてしまうこともあるかもしれません。

 しかし今日の箇所が、パウロを通して我々に伝えるのは、神に与えられた務めを果たすとは如何なることであるのか、ということ。そしてその為の旅路は決して容易なものではない、ということであります。
 
 そしてもう一つ、重要な事が示されています。パウロがローマに入った後の15節「ローマからは、兄弟たちが私たちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた」このようにあります。この兄弟たちとは一体誰であるのかは分かりません。名前は書かれていないし、何名集まったのか、どのような立場の兄弟たちだったのかは不明であります。しかし誰がここに来たのか、ではなく、ここに兄弟たちが来た、という事実それ自体が重要であるのです。

 そもそもパウロはローマの教会の人々のことは知らなかったはずであります。ローマの信徒への手紙の中でも、「ローマの教会に書き送る」と書かれていません。ただ「ローマにいるあなた方にも、ぜひ福音を伝えたい」(ローマ書1章15節)と言われているのです。つまり彼らは、ローマにおける伝道所のような設立されたばかりの集まりであるか、もしくは家庭集会のような「教会の様相を呈する以前の状況であった」と思われます。しかしパウロはそこに信仰者がいることを聞きつけ、そこに行く事を熱望し、あの手紙を書き送ったのです。誰が読むのか分からずに、しかし希望を持って書き送ったのです。結果として、護送されるという形で彼の願いは、少々いびつな形でありますたが叶ったわけです。

 しかしこれまでの経緯を考えてみるならば、彼の事を出迎える人がいるとは考えられない状況にありました。船は難破し、マルタ島に打ち上げられ、その後、シシリアから南イタリアを通って、トレス・タベルネに着くという、経路も、スケジュールも、当初の予定からは狂いに狂いまくっていたはずであります。しかしどこからかそれを聞きつけて、信仰の友たちが迎えに来たというのです。そしてパウロはそこで「勇気づけられた」というのです。

 ウィリアム・ウィリモンという神学者は、「我々が‥人生の困難と戦うに際して、教会の最大の賜物は、『教会』(それ自身)である」(現代聖書注解「使徒言行録」284頁)と言っています。つまり教会の交わり、信仰の友、思いを同じくする者の励ましというものこそが、教会のもたらす最大の恵みである、というのです。

 人間が集まるところには、諍いも起きます。軋轢も起きます。ねたみや嫉みも起こり得ます。しかしそれ以上に、共に生きる者の集いには励ましがあります。勇気が与えられるのです。箴言18章24節「友のふりをする友もあり、兄弟よりも愛し、親密になる人もある」。詩編133編1節「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」と言われている、あの兄弟の交わりが、神の与え給う恵みであるのです。

(日本キリスト教会 浦和教会 2011年9月4日礼拝説教 )