マタイによる福音書6章19節-23節 『天に富を積みなさい』 2012年4月29日

 マタイによる福音書6章19節-23節 『天に富を積みなさい』

 「原始共産制」という言葉があります。これは通常マルクスやエンゲルスとの関連で使われる言葉ですが、一言で言いますと、財産を共有する原始的な社会制度の事を言います。例えばアメリカ先住民族たちが、彼らの集落の中に富や権力による階層構造を持っていなかったという事、つまり、原始的な人類は、富や財産を集めて確保する事はなく、みんなでそれを共有していた、という仮説です。これは特に狩猟民族に見られる特徴だと言います。狩猟民族は食料を長期保存する事ができず、獲物を捕まえるとすぐに消費しなければなりませんから、余った分を取っておくという習慣が生まれなかったというものです。それが有史以前の社会に起こった自発的な社会システムであり、それが人間の根本原理である、という考え方であります。しかし人間は次第に穀物の栽培を行い、家畜化が進んでいきます。そうなると徐々に「所有物」という概念が生まれていきまして、それが財産や富になっていきます。それが結果として階級制を産み出し、人間は富む事に必死になっていく。そのような経済学的な考え方の事を、「原始共産制」というのであります。

 しかし私自身、この考え方に聊かの疑問を持っています。つまり人間は根本的には共産主義であり、みんなと平等に分け合い、所有する事を知らなかったというのは、相当楽観的であるし、しかもこれは共産主義を進めるためのプロパガンダとしての言説であると思うのです。人間は元々こんなに素晴らしい生活をしていた。しかし貨幣経済がそれを駄目にしてしまった。だから今こそ共産主義を立ち上げようではないか。このような共産主義正当化の論拠として使われる為の言説であると思うのです。

 もし原始共産主制なるものがあったとすれば、随分と古い話であって―進化論を前提にして考えるならば―、我々人間がより動物に近かった頃の事と思います。それを「かつての人間は共産主義であった」などと一括りに出来ないのではないかと思います。人間が他の人間と集落を持ち、社会生活を営むようになれば、人間の根本には「富を集める」という行為が起こり、それは人間に内在する行為であるのではないかと思うのです。狩猟生活をしていようとも、農耕生活であろうとも、貨幣経済が持ち込まれるか否かによってではなく、我々人間に内在する思いと行動が、富を得る事、収集する事ではないかと思うのです。小さな子どもたちが、兄弟でおやつを取り合っているのを見ても微笑ましく感じますが、大の大人が遺産相続によって財産を取り合っているのを微笑ましく感じる事はありません。しかし子どもであれ、大人であれ、やっていることに大差なく、人間の中に内在する富への飽くなき追求心は、原始的生活であれ、現代的生活であれ、人間が人間である以上無くなる事は無いのではないかと思うのです。

 聖書はこれを原罪と呼んできました。アダムとエバが神と同じ知識を得たい、知恵を得たい、という事から始まった人間の堕落への道は「得たい」という思いにその発端があった事が示されています。それは知識の所有であり、神の権利と力の所有を欲する事によって起こった出来事であったと聖書は語ります。

 この飽くなき追求としての富への憧れ、財産を得る事への欲求を考える時、私たちに今日与えられた御言葉がどのように響いてくるでしょうか。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」この言葉を聞く時、私たちは何を感じるでしょうか。

 教会に初めて来た人、キリスト教を全く知らない人は恐らく「天に富を積むなんて事は出来ない。具体的にどうやればいいのか」と問うかもしれません。キリスト者やキリスト教信仰を理解している人は「この世で善い行いをする事は、天国に宝を積むことになる」と素直に受け入れるかもしれません。また他宗教に属する人は、善行は自らの徳を積むことになる、と理解するかもしれません。読む者によって色々な印象を与えるこの言葉「天に富を積む」とは一体どういう事なのでしょうか。ともすれば我々はそこまで深く考えて来なかったのではないかと思います。我々キリスト者は、天に宝を積みなさい、という言葉を様々なところで使いますし、私たちは良く聞いてきました。この世での善い行いは神様が見ているのだから、それは後々の為の天国への積み立てとなる。このように捉えてきたと思います。しかし、よくよく考えてみますと少しおかしな感じもするのです。何故ならそれは善行を積む事が、功績を天に残す事、と受けとめられなくもないからです。言い換えるならば、私たちは信仰告白の信仰箇条として「功なくして罪の許しを得、神の子とせらる」。口語文では「功績なくして罪が赦され、神の子とされます」と告白しています。つまり善い行いをすることは何の積立てにもならず、救いはただ神の憐れみによってのみ与えられる恵みである事を私たちは告白しているからです。この事を私たちはどう考えれば良いのでしょうか。それは富の価値と私たちの関係にあると思うのです。
 

 冒頭でも言いましたように、私たち人類は、物を収集し、集め、ため込むという傾向にあります。私たちは差別や格差のない社会を求めたいと願いますが、しかし人間が富や財産をため込むことによって、それに基づいて格差つまり、貧富の差を産み出し、結果的にそれが社会的差別を産み出していくのです。支配階級、被支配階級はこうして生まれます。もちろん富や財産が「貨幣」である必要はありません。ある民族は家畜をどれだけ所有しているかによって判断され、ある国では貴金属や土地の所有によって、又ある種の人たちは株などの取引可能な有価証券の量によって富を判断されます。しかしそれは単に財産を持っているという事に留まらず、「所有」それ自体が社会的地位として判断されていくのです。多くを持つ者は、より価値の高い者として位置づけられ、そこには共同体からの特別な位置付けが与えられます。貴族とか、豪農とか、地主などと呼ばれる人がそれに当たります。その部類の人々は、地域での発言力を持ち、時には政治的な関与を許され、大きな共同体を動かす権力を与
えられます。つまり財産を持ち、富んでいく事は、社会的な地位と密接な関連性の中に置かれている事を示すのです。富を熱望する人は、富を更に富ませていきます。それによって更に人間的価値を高めていきます。否、人間的価値があたかも高いかのように思われ、又そのように評価されていくのです。しかし「富」は単に裕福である事から離れ、人間の価値それ自体を規定し、生きる意味や、生きる価値への判断へと変わっていくのです。例えば、富む者はあたかも価値のある人のように受け止められ、社会的に受け入れられていきます。それは「重用される事」や「蔑ろにされる事」など、人から愛されるという要素にも踏み込んでいきます。富む者は愛され、注目を受け、財産を持つ者は、財産を持つという理由で人々から尊敬され、愛されていく。つまり「富」や「財産」は、所有物・物質的要素を飛び越えて行き、その人自身の価値を決め、その人が愛されるか否かまでも決めてしまう要素となってしまうのです。少々言い過ぎかもしれませんが、人間社会というのは、このような価値観の中にあると思うのです。もちろんそうでなはない価値を持っている人も大勢いるとは思います。しかし得てしてこの世が貨幣経済によって市場経済の原理で回っている現状を考えるならば、中世以来私たちの価値は、つまり人間的価値の多くは財産や富と密接に結びついてこざるを得なかったのではないかと思うのです。

 しかし聖書の言葉は実に良く確信を捉えているのです。そのような富は「虫に食われる」と言います。富は「錆びつく」、又、「盗まれる」と言うのです。これによって人間的価値を判断されてきたその前提となる物。その根拠となる物は、実は小さな虫に抵抗できず、経年劣化や時間に耐えきれず、悪い人の餌食になると言うのです。美しい価値ある衣類や反物は、虫に食われる事でその価値を失います。価値ある美しい工芸品も錆びつく事でその価値を落とします。家畜は病気に罹るし、備蓄していた穀物はカビや虫の害を受ける。株式投資は一瞬で破綻を招き、盗人は獲得した者を奪っていく。

 私たちがその人生のすべてを、否、人から受ける愛情なども含めてその全てを価値付けてきた根拠である「富」とはこんなものだ、と聖書は言うのです。まるでウィットに富んだジョークのように、富そのものの真実性を暴くのです。このような物と結びつくのが私たちの生きる意味であるならば、それは私たちの人生そのものを脆弱にするのではないか。もし私たちが、この富によって立もし倒れもするならば、私たちの人生とは一体なんだろうか。私たちの命とは一体なんだろうか。私たちが幸福に生きるとは、価値ある人生を喜んで生きるとはなんだろうか。その事を聖書は指し示すのです。私たちは、虫に食われ、錆びつき、盗人に奪われていくものと結ばれて生きるのではなく、神と結ばれて生きていくのだ。神と結ばれるということは、虫に食われ、錆びつき、盗まれる事のない物であり、神の価値の中で生きていく事に他ならない。財産の浮き沈みと共に人生も浮き沈んでいくのではなく、全き神の価値によって、神の栄光と共に、価値づけられていく。つまり天に富を積むとは、善行や徳を積んでいく事ではなく、あなたの富とは何か。あなたが最も心を込めて大切にするものとは一体何か。あなたの心の所在がどこにあるのか、その事を示すのです。だから21節で「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と言われるのです。これを言い換えると、あなたが最も心を込めて大事にしている物こそがあなたの富である。というのです。

 私たちは今日の御言葉を、私たちの財産をどこに貯えるのか、あとあとの事を考えて、善い行いをしておけば天国に行った後に良い事がある、と捉えがちでありましたが、しかしこの御言葉は、富の概念そのものを変えるよう促す言葉であったのです。つまり、あなたを救い、あなたを贖い、あなたを導く神ご自身があなたの財産であるのだ。神と共に生きる事こそが、私たちにとっての宝なのだ。聖書のこの言葉をしっかりと受け止めたいと思います。

(浦和教会主日礼拝説教 2012年4月29日)