マタイによる福音書6章24節 『神なのか富なのか』 2012年5月6日

 マタイによる福音書6章24節 『神なのか富なのか』

 「神なのか、富なのか」我々はこの小さな1節だけの、この単純な質問について考えてみたいのです。この御言葉は素直に読むことが出来ます。神に仕えるか、それとも富に仕えるのか。その選択を迫られている言葉です。そして私たちキリスト者はこれに対して簡単に結論を出せます。どちらを選びますか。その答えは「私は神を選びます」。それ以上の答えはありません。ですからこの箇所はある意味において結論は非常に単純で分かりやすいのです。素直に読むことが出来る言葉なののです。この答えは変わりません。

 しかしながら私たちは、それと同時に立ち上がってくる、大きな疑問と向き合わねばなりません。一つ目は「富を得る事、金銭を得る事は罪なのであろうか」という疑問。そして二つ目は、「私たちは金銭の得てはならないのだろうか」というものです。それは私たちにとって大きな問題です。私たちが貨幣経済社会の中に生きているからです。

 果たして聖書は、私たちに富を捨てさせようとしているのでしょうか。なるほど聖書のあらゆる箇所で富を捨てる事が言われております。金持ちが神の国に入るよりはラクダが針の穴を通る方が優しい、という衝撃的な事を言われました。ルカ福音書では、徴税人ザアカイが不正に集めた金銭を放棄し、それを施しの為に使ったとあります。又「富んだ青年の話」は印象的です。神の国に入る為に私は律法を皆守ってきました、と豪語する青年は、主イエスの前に、すごすごと去って行きました。それは、彼が「財産を持っていたから」でありました。

 聖書は我々と金銭との関係をどう扱えと言っているのでしょうか。信仰者は金銭を得てはいけないのでしょうか。
 ある(サイトでの)説教者はこのように言います。「我々キリスト者が求められているのは、金銭から離れ、それを捨てる事である。それが神様の御心である」と、言われておりました。この直球でファンダメンタルな聖書理解には、1つの正しさと、一つの間違いがあると思います。一つの正しさとは、文字通り、我々信仰者は金銭に捕らわれる者たちではないという事です。それは先ほど言った結論と同じであります。そして、一つの間違いというのは、我々の生活はそれでも金銭によって成り立っているという事実を忘れてはならない、という事です。
 確かに、伝道をするにしても、教会を建てるにしても、多額の資金が必要であります。宣教活動を行うにしても運転資金が必要なのです。
 又、多くの困った人々を支えたいと思う時、自分の体が思うように動かない人、もしくは年齢的な問題でそこに駆けつける事が出来ない場合、金銭による支援が最も効果的であると言えるでしょう。3.11の大震災に際し、我々浦和教会においても、今後も募金活動を続けていこうと計画しております。

 このように、―金銭それ自体は、勿論手垢が付いていると言う意味において汚いかも知れませんが―、その性質において決して汚いものではありません。むしろ良い使われ方がなされるのであれば、それは意義深い物となり得るのであります。

 世界経済は大航海時代とアメリカ新大陸発見を経て、17世紀の産業革命によって新たな展開を見せます。それは資本家階級と労働者階級の明らかな区別であります。それによって現れたのは、「格差」です。先週の説教でも触れましたが、金銭の追求によってもたらされる事態は、多く持つ者が少なく持つ者を支配し、更に搾取を続けていくという連鎖であります。多く持つ者は投資をする事が出来、更に多くを持つ者になっていく。しかし少なく持つ者の状況は劇的に変わるという事がほとんどない。少なく持つ者は少ないままで甘んじて行かざるを得ない、という事が起こるわけです。これが私たちの社会の中で起きている経済の流れ、金銭の流れであります。

 又、今日の箇所にあります「仕える」という言葉に着目してみると、この単語は「奴隷になる」もしくは「隷属する」という意味から派生した語であり、ここでは奴隷が主人に仕える事がイメージされている事が分かります。新約聖書が書かれた当時は、普通に奴隷という身分があったようですが、しかし一人の奴隷が二人以上の主人の所有になっている事は稀であったと言われています。つまり当時の一般的な主人と奴隷との関係に例えて主イエスはここでお語りになっているのです。奴隷が複数の主人を持たないように、あなたがたの主人も一人である、と言われる。

 そしてここでは神と富を擬人化して二者択一の事柄として命じているのです。富という単語は、「マモン」という言葉が使われています。マモンというのは、元々アラム語でありましたが、ギリシャ語に取り入れられるようになり、神に敵対する人間の強欲を擬人化した悪魔として描かれるようになりました。
 つまりキリスト教会の長い歴史の中で、金銭を表す単語が、悪魔を表す単語として使われるようになったという面白い現象が起こっているのです。それはカトリック教会的な伝統や、神話に基づいて定着してきたものでありますが、私たちプロテスタント教会でも、金銭は良いものというよりも、むしろ悪い者として考えられてきたのです。それは金銭の持つ魔力と言うべき力であり、金銭そのものが悪いというよりも、それを使う我々の側に問題があると言えるでしょう。

 つまり私たちは今日の箇所において、単純に金銭を全て捨てなさい、あれは無益な産物だ、と言われているのではありません。金銭それ自体は、決して悪いものではなく、我々はこれを社会生活を潤滑させる手段として、道具の一つとして用いているからであります。2000年前も現在も同じようにこれを道具として使っています。勿論新自由主義経済などという現代的な経済観念が主イエスの時代にあったわけではありません。しかし小麦粉を袋いっぱいに詰めたら何デナリオンというような事は、対価交換の道具として使われてきたわけです。それは今も変わりません。

 金銭とは等価交換の“道具”だと言えます。つまり物質としての紙幣とコイン自体には聊かの価値もないのです。1万円札も、1000ドル札も私たちには価値のある物です。しかしこれを2000年前のパレスチナに持って行っても何の価値もありません。ただの紙切れ以外の何物でもないのです。しかし私たちは、この紙切れに、「紙幣
」という価値を与え、価値ある物というルールに則って、価値ある物と「見做している」だけなのです。つまり私たちの使っている金銭というものは、その文化的状況とそのルールの中にあって、その社会の決まり事の枠内のみの価値であって、普遍的価値のあるものではないのです。それが金銭のシステムであり、金銭のルールであります。

 しかし金銭によって人は何でも購入する事が出来ます。それはあたかも“万能”であるかのようにあらゆる物を手に入れる事が出来るのです。家を買うのも、未来に投資するのも、人命の賠償や慰謝料としても使えるてしまうのです。それは全能であり、万能であるかのように錯覚してしまうのです。しかし実際は「ルールの中に留まった価値しか持ち合わせない」、それが金銭というものの実態なのであります。
 私たちはこの事に注目したい。「二人の主人に仕える事は出来ない」と聖書が言う時、私たちは「金銭を使ってはならない」とか、「それを出来るだけ多く捨てよ」と言う事が言われているのとは異なるのです。金銭のルールや金銭の論理に従い、それを神としてはならない、という事が言われているのです。

 金銭は増やす事が出来ます。増えたら更に増やす術を持っている。銀行に預けるだけでも―最近は少なくなったかもしれませんが―しかし、預けるだけで増やす事は出来るのです。金銭は簡単に多く製造してはなりません。需要と供給のバランスを保ちながらでないと急激なインフレーションを引き起こしてしまいます。それは金銭そのものの価値を無くしてしまわないためです。つまり金銭は、出回っている一定量を如何に多く自分のところに集めるかという構造の中で、自分の中で増やしていこうとするものなのです。ある一定の分量しかない金銭を、人々はこぞって自分のところに集めたがる。それが金銭の力です。それは勿論「負の力」です。それを集めようとする構造は、正統な労働の対価としてに留まらず、不当に、つまり、出来るだけ多く、そして手間をかけず、効率よく集める事を人々は求めてしまいます。それが不正を働く構造を作っていくのです。貸金業者の高過ぎる利率が一時期問題になりましたが、あれは効率よく、より多くを求めようとした結果、法のグレーゾーンをかいくぐった結果だと思います。それは我々に対する誘惑です。そこでは人の痛みは無視されます。騙してでも私腹を肥やす事が求められていくのです。自分の為ならば、人の悲しみも、辛さもまるで感じないかのように、ある一定の量しか出回っていない金銭を、自分のところにだけ増やそうとすべく、目的は遂行されるのです。それが金銭のルールに則ったシステムであり、金銭の構造であります。

 ここでお分かりになりますでしょうか。聖書は、この“金銭の論理”を主人とするのではなく、“主イエス・キリストの論理”を主人とせよ、と命じているのです。金銭が、人の痛みを感じさせないのに対し、主イエスは自らを痛み、それも十字架の死に至るまでその身に痛みを受ける事の中で、他者との関わりを持たれました。金銭を追及する事が、他者から奪う事であるのに対し、主イエスは、他者の為に自らを奪われる生涯を送ったのです。それが神の独り子、キリスト・イエスの救いの論理であり、キリストの我々に対する価値であるのです。罪を持つ私たちにはまるで価値がなかったとしても、しかしこの価値無き我をも価値ある者と見做して生かす主であるのです。

 十字架というローマ帝国の処刑方法それ自体には何の価値もありません。凄惨で惨たらしい死刑の方法以外の何物でもありませ。しかしこの価値のない十字架にお掛りになってその上で流された血によって、私たちはキリストに罪贖われた者としての価値を得るのです。価値無い物をあたかも高価なものとして、見做して下さる。「あなた方は世の光であり、地の塩である」と断言して下さり、神の子としての群れの一端に私たちを招き入れてくださるのです。それが我々の主、つまり、我々のマスター、我々の主人である、イエス・キリストであります。あなたはどちらを主人とするのか。あなたが価値ある生き方を追求し、あなた自身の価値を認められ、あなた自身がそれを自覚して生きる真の生き方はどちらなのか。どちらの主人の論理の中で、どちらの主人に従う中であなたは真の命を得ていくだろうか。その二者択一が迫られているのであります。

 金銭という主人は、時として、奪い合い、騙し合う事を求める。又、時として人を愛さず、人よりも抜きん出る事を求めるのです。しかしキリストという主人は、常に与え、真実を求めます。そして常に愛し、人を生かそうと試みるのです。今日の箇所によって私たちに示されるのは、私たちの生き方そのものであります。キリスト者として生きるという事は、生かし、愛し、そして与える生き方であるという事を示しているのです。私たちの主人がそうであったように、私たちも又そのように生き、その主人を価値として、私たちの価値を見出すものでありたいのです。            
(日本キリスト教会浦和教会主日礼拝説教 2012年5月6日)