5月13日~19日

5月13日~5月19日の集会

◇聖書の学びと祈り        5月16日(水) 午後  7:30
  エレミヤ2章1節~19節

◇聖書の学びと祈り         5月17日(木) 午前 10:00
  出エジプト記34章

5月20日

  2012年5月20日(日)の礼拝

◇日 時:5月20日(日)午前10:30~

◇説 教:「あすの事は明日自らが思い悩む」

◇説教者:三輪地塩(浦和教会)

◇聖 書:マタイによる福音書6章25節~34節

マタイによる福音書6章24節 『神なのか富なのか』 2012年5月6日

 マタイによる福音書6章24節 『神なのか富なのか』

 「神なのか、富なのか」我々はこの小さな1節だけの、この単純な質問について考えてみたいのです。この御言葉は素直に読むことが出来ます。神に仕えるか、それとも富に仕えるのか。その選択を迫られている言葉です。そして私たちキリスト者はこれに対して簡単に結論を出せます。どちらを選びますか。その答えは「私は神を選びます」。それ以上の答えはありません。ですからこの箇所はある意味において結論は非常に単純で分かりやすいのです。素直に読むことが出来る言葉なののです。この答えは変わりません。

 しかしながら私たちは、それと同時に立ち上がってくる、大きな疑問と向き合わねばなりません。一つ目は「富を得る事、金銭を得る事は罪なのであろうか」という疑問。そして二つ目は、「私たちは金銭の得てはならないのだろうか」というものです。それは私たちにとって大きな問題です。私たちが貨幣経済社会の中に生きているからです。

 果たして聖書は、私たちに富を捨てさせようとしているのでしょうか。なるほど聖書のあらゆる箇所で富を捨てる事が言われております。金持ちが神の国に入るよりはラクダが針の穴を通る方が優しい、という衝撃的な事を言われました。ルカ福音書では、徴税人ザアカイが不正に集めた金銭を放棄し、それを施しの為に使ったとあります。又「富んだ青年の話」は印象的です。神の国に入る為に私は律法を皆守ってきました、と豪語する青年は、主イエスの前に、すごすごと去って行きました。それは、彼が「財産を持っていたから」でありました。

 聖書は我々と金銭との関係をどう扱えと言っているのでしょうか。信仰者は金銭を得てはいけないのでしょうか。
 ある(サイトでの)説教者はこのように言います。「我々キリスト者が求められているのは、金銭から離れ、それを捨てる事である。それが神様の御心である」と、言われておりました。この直球でファンダメンタルな聖書理解には、1つの正しさと、一つの間違いがあると思います。一つの正しさとは、文字通り、我々信仰者は金銭に捕らわれる者たちではないという事です。それは先ほど言った結論と同じであります。そして、一つの間違いというのは、我々の生活はそれでも金銭によって成り立っているという事実を忘れてはならない、という事です。
 確かに、伝道をするにしても、教会を建てるにしても、多額の資金が必要であります。宣教活動を行うにしても運転資金が必要なのです。
 又、多くの困った人々を支えたいと思う時、自分の体が思うように動かない人、もしくは年齢的な問題でそこに駆けつける事が出来ない場合、金銭による支援が最も効果的であると言えるでしょう。3.11の大震災に際し、我々浦和教会においても、今後も募金活動を続けていこうと計画しております。

 このように、―金銭それ自体は、勿論手垢が付いていると言う意味において汚いかも知れませんが―、その性質において決して汚いものではありません。むしろ良い使われ方がなされるのであれば、それは意義深い物となり得るのであります。

 世界経済は大航海時代とアメリカ新大陸発見を経て、17世紀の産業革命によって新たな展開を見せます。それは資本家階級と労働者階級の明らかな区別であります。それによって現れたのは、「格差」です。先週の説教でも触れましたが、金銭の追求によってもたらされる事態は、多く持つ者が少なく持つ者を支配し、更に搾取を続けていくという連鎖であります。多く持つ者は投資をする事が出来、更に多くを持つ者になっていく。しかし少なく持つ者の状況は劇的に変わるという事がほとんどない。少なく持つ者は少ないままで甘んじて行かざるを得ない、という事が起こるわけです。これが私たちの社会の中で起きている経済の流れ、金銭の流れであります。

 又、今日の箇所にあります「仕える」という言葉に着目してみると、この単語は「奴隷になる」もしくは「隷属する」という意味から派生した語であり、ここでは奴隷が主人に仕える事がイメージされている事が分かります。新約聖書が書かれた当時は、普通に奴隷という身分があったようですが、しかし一人の奴隷が二人以上の主人の所有になっている事は稀であったと言われています。つまり当時の一般的な主人と奴隷との関係に例えて主イエスはここでお語りになっているのです。奴隷が複数の主人を持たないように、あなたがたの主人も一人である、と言われる。

 そしてここでは神と富を擬人化して二者択一の事柄として命じているのです。富という単語は、「マモン」という言葉が使われています。マモンというのは、元々アラム語でありましたが、ギリシャ語に取り入れられるようになり、神に敵対する人間の強欲を擬人化した悪魔として描かれるようになりました。
 つまりキリスト教会の長い歴史の中で、金銭を表す単語が、悪魔を表す単語として使われるようになったという面白い現象が起こっているのです。それはカトリック教会的な伝統や、神話に基づいて定着してきたものでありますが、私たちプロテスタント教会でも、金銭は良いものというよりも、むしろ悪い者として考えられてきたのです。それは金銭の持つ魔力と言うべき力であり、金銭そのものが悪いというよりも、それを使う我々の側に問題があると言えるでしょう。

 つまり私たちは今日の箇所において、単純に金銭を全て捨てなさい、あれは無益な産物だ、と言われているのではありません。金銭それ自体は、決して悪いものではなく、我々はこれを社会生活を潤滑させる手段として、道具の一つとして用いているからであります。2000年前も現在も同じようにこれを道具として使っています。勿論新自由主義経済などという現代的な経済観念が主イエスの時代にあったわけではありません。しかし小麦粉を袋いっぱいに詰めたら何デナリオンというような事は、対価交換の道具として使われてきたわけです。それは今も変わりません。

 金銭とは等価交換の“道具”だと言えます。つまり物質としての紙幣とコイン自体には聊かの価値もないのです。1万円札も、1000ドル札も私たちには価値のある物です。しかしこれを2000年前のパレスチナに持って行っても何の価値もありません。ただの紙切れ以外の何物でもないのです。しかし私たちは、この紙切れに、「紙幣
」という価値を与え、価値ある物というルールに則って、価値ある物と「見做している」だけなのです。つまり私たちの使っている金銭というものは、その文化的状況とそのルールの中にあって、その社会の決まり事の枠内のみの価値であって、普遍的価値のあるものではないのです。それが金銭のシステムであり、金銭のルールであります。

 しかし金銭によって人は何でも購入する事が出来ます。それはあたかも“万能”であるかのようにあらゆる物を手に入れる事が出来るのです。家を買うのも、未来に投資するのも、人命の賠償や慰謝料としても使えるてしまうのです。それは全能であり、万能であるかのように錯覚してしまうのです。しかし実際は「ルールの中に留まった価値しか持ち合わせない」、それが金銭というものの実態なのであります。
 私たちはこの事に注目したい。「二人の主人に仕える事は出来ない」と聖書が言う時、私たちは「金銭を使ってはならない」とか、「それを出来るだけ多く捨てよ」と言う事が言われているのとは異なるのです。金銭のルールや金銭の論理に従い、それを神としてはならない、という事が言われているのです。

 金銭は増やす事が出来ます。増えたら更に増やす術を持っている。銀行に預けるだけでも―最近は少なくなったかもしれませんが―しかし、預けるだけで増やす事は出来るのです。金銭は簡単に多く製造してはなりません。需要と供給のバランスを保ちながらでないと急激なインフレーションを引き起こしてしまいます。それは金銭そのものの価値を無くしてしまわないためです。つまり金銭は、出回っている一定量を如何に多く自分のところに集めるかという構造の中で、自分の中で増やしていこうとするものなのです。ある一定の分量しかない金銭を、人々はこぞって自分のところに集めたがる。それが金銭の力です。それは勿論「負の力」です。それを集めようとする構造は、正統な労働の対価としてに留まらず、不当に、つまり、出来るだけ多く、そして手間をかけず、効率よく集める事を人々は求めてしまいます。それが不正を働く構造を作っていくのです。貸金業者の高過ぎる利率が一時期問題になりましたが、あれは効率よく、より多くを求めようとした結果、法のグレーゾーンをかいくぐった結果だと思います。それは我々に対する誘惑です。そこでは人の痛みは無視されます。騙してでも私腹を肥やす事が求められていくのです。自分の為ならば、人の悲しみも、辛さもまるで感じないかのように、ある一定の量しか出回っていない金銭を、自分のところにだけ増やそうとすべく、目的は遂行されるのです。それが金銭のルールに則ったシステムであり、金銭の構造であります。

 ここでお分かりになりますでしょうか。聖書は、この“金銭の論理”を主人とするのではなく、“主イエス・キリストの論理”を主人とせよ、と命じているのです。金銭が、人の痛みを感じさせないのに対し、主イエスは自らを痛み、それも十字架の死に至るまでその身に痛みを受ける事の中で、他者との関わりを持たれました。金銭を追及する事が、他者から奪う事であるのに対し、主イエスは、他者の為に自らを奪われる生涯を送ったのです。それが神の独り子、キリスト・イエスの救いの論理であり、キリストの我々に対する価値であるのです。罪を持つ私たちにはまるで価値がなかったとしても、しかしこの価値無き我をも価値ある者と見做して生かす主であるのです。

 十字架というローマ帝国の処刑方法それ自体には何の価値もありません。凄惨で惨たらしい死刑の方法以外の何物でもありませ。しかしこの価値のない十字架にお掛りになってその上で流された血によって、私たちはキリストに罪贖われた者としての価値を得るのです。価値無い物をあたかも高価なものとして、見做して下さる。「あなた方は世の光であり、地の塩である」と断言して下さり、神の子としての群れの一端に私たちを招き入れてくださるのです。それが我々の主、つまり、我々のマスター、我々の主人である、イエス・キリストであります。あなたはどちらを主人とするのか。あなたが価値ある生き方を追求し、あなた自身の価値を認められ、あなた自身がそれを自覚して生きる真の生き方はどちらなのか。どちらの主人の論理の中で、どちらの主人に従う中であなたは真の命を得ていくだろうか。その二者択一が迫られているのであります。

 金銭という主人は、時として、奪い合い、騙し合う事を求める。又、時として人を愛さず、人よりも抜きん出る事を求めるのです。しかしキリストという主人は、常に与え、真実を求めます。そして常に愛し、人を生かそうと試みるのです。今日の箇所によって私たちに示されるのは、私たちの生き方そのものであります。キリスト者として生きるという事は、生かし、愛し、そして与える生き方であるという事を示しているのです。私たちの主人がそうであったように、私たちも又そのように生き、その主人を価値として、私たちの価値を見出すものでありたいのです。            
(日本キリスト教会浦和教会主日礼拝説教 2012年5月6日)

5月6日~12日

5月6日~5月12日の集会

◇北関東牧師会(大宮東伝道所)  5月8日(火) 午前 11:00

◇杉戸集会(田端宅)       5月9日(水) 午後 1:30

◇聖書の学びと祈り        5月10日(木) 午後 7:30
  Ⅰコリント15章35節~58節

◇聖書の学びと祈り         5月10日(木) 午前 10:00
  出エジプト記33章

◇トレインキッズ          5月12日(土) 午前 11:00

5月13日

  2012年5月13日(日)の礼拝<こどもとおとなの合同礼拝>

◇日 時:5月13日(日)午前10:30~

◇説 教:「ニコデモの救い」

◇説教者:三輪地塩(浦和教会)

◇聖 書:ヨハネによる福音書3章1節~15節

マタイによる福音書6章19節-23節 『天に富を積みなさい』 2012年4月29日

 マタイによる福音書6章19節-23節 『天に富を積みなさい』

 「原始共産制」という言葉があります。これは通常マルクスやエンゲルスとの関連で使われる言葉ですが、一言で言いますと、財産を共有する原始的な社会制度の事を言います。例えばアメリカ先住民族たちが、彼らの集落の中に富や権力による階層構造を持っていなかったという事、つまり、原始的な人類は、富や財産を集めて確保する事はなく、みんなでそれを共有していた、という仮説です。これは特に狩猟民族に見られる特徴だと言います。狩猟民族は食料を長期保存する事ができず、獲物を捕まえるとすぐに消費しなければなりませんから、余った分を取っておくという習慣が生まれなかったというものです。それが有史以前の社会に起こった自発的な社会システムであり、それが人間の根本原理である、という考え方であります。しかし人間は次第に穀物の栽培を行い、家畜化が進んでいきます。そうなると徐々に「所有物」という概念が生まれていきまして、それが財産や富になっていきます。それが結果として階級制を産み出し、人間は富む事に必死になっていく。そのような経済学的な考え方の事を、「原始共産制」というのであります。

 しかし私自身、この考え方に聊かの疑問を持っています。つまり人間は根本的には共産主義であり、みんなと平等に分け合い、所有する事を知らなかったというのは、相当楽観的であるし、しかもこれは共産主義を進めるためのプロパガンダとしての言説であると思うのです。人間は元々こんなに素晴らしい生活をしていた。しかし貨幣経済がそれを駄目にしてしまった。だから今こそ共産主義を立ち上げようではないか。このような共産主義正当化の論拠として使われる為の言説であると思うのです。

 もし原始共産主制なるものがあったとすれば、随分と古い話であって―進化論を前提にして考えるならば―、我々人間がより動物に近かった頃の事と思います。それを「かつての人間は共産主義であった」などと一括りに出来ないのではないかと思います。人間が他の人間と集落を持ち、社会生活を営むようになれば、人間の根本には「富を集める」という行為が起こり、それは人間に内在する行為であるのではないかと思うのです。狩猟生活をしていようとも、農耕生活であろうとも、貨幣経済が持ち込まれるか否かによってではなく、我々人間に内在する思いと行動が、富を得る事、収集する事ではないかと思うのです。小さな子どもたちが、兄弟でおやつを取り合っているのを見ても微笑ましく感じますが、大の大人が遺産相続によって財産を取り合っているのを微笑ましく感じる事はありません。しかし子どもであれ、大人であれ、やっていることに大差なく、人間の中に内在する富への飽くなき追求心は、原始的生活であれ、現代的生活であれ、人間が人間である以上無くなる事は無いのではないかと思うのです。

 聖書はこれを原罪と呼んできました。アダムとエバが神と同じ知識を得たい、知恵を得たい、という事から始まった人間の堕落への道は「得たい」という思いにその発端があった事が示されています。それは知識の所有であり、神の権利と力の所有を欲する事によって起こった出来事であったと聖書は語ります。

 この飽くなき追求としての富への憧れ、財産を得る事への欲求を考える時、私たちに今日与えられた御言葉がどのように響いてくるでしょうか。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」この言葉を聞く時、私たちは何を感じるでしょうか。

 教会に初めて来た人、キリスト教を全く知らない人は恐らく「天に富を積むなんて事は出来ない。具体的にどうやればいいのか」と問うかもしれません。キリスト者やキリスト教信仰を理解している人は「この世で善い行いをする事は、天国に宝を積むことになる」と素直に受け入れるかもしれません。また他宗教に属する人は、善行は自らの徳を積むことになる、と理解するかもしれません。読む者によって色々な印象を与えるこの言葉「天に富を積む」とは一体どういう事なのでしょうか。ともすれば我々はそこまで深く考えて来なかったのではないかと思います。我々キリスト者は、天に宝を積みなさい、という言葉を様々なところで使いますし、私たちは良く聞いてきました。この世での善い行いは神様が見ているのだから、それは後々の為の天国への積み立てとなる。このように捉えてきたと思います。しかし、よくよく考えてみますと少しおかしな感じもするのです。何故ならそれは善行を積む事が、功績を天に残す事、と受けとめられなくもないからです。言い換えるならば、私たちは信仰告白の信仰箇条として「功なくして罪の許しを得、神の子とせらる」。口語文では「功績なくして罪が赦され、神の子とされます」と告白しています。つまり善い行いをすることは何の積立てにもならず、救いはただ神の憐れみによってのみ与えられる恵みである事を私たちは告白しているからです。この事を私たちはどう考えれば良いのでしょうか。それは富の価値と私たちの関係にあると思うのです。
 

 冒頭でも言いましたように、私たち人類は、物を収集し、集め、ため込むという傾向にあります。私たちは差別や格差のない社会を求めたいと願いますが、しかし人間が富や財産をため込むことによって、それに基づいて格差つまり、貧富の差を産み出し、結果的にそれが社会的差別を産み出していくのです。支配階級、被支配階級はこうして生まれます。もちろん富や財産が「貨幣」である必要はありません。ある民族は家畜をどれだけ所有しているかによって判断され、ある国では貴金属や土地の所有によって、又ある種の人たちは株などの取引可能な有価証券の量によって富を判断されます。しかしそれは単に財産を持っているという事に留まらず、「所有」それ自体が社会的地位として判断されていくのです。多くを持つ者は、より価値の高い者として位置づけられ、そこには共同体からの特別な位置付けが与えられます。貴族とか、豪農とか、地主などと呼ばれる人がそれに当たります。その部類の人々は、地域での発言力を持ち、時には政治的な関与を許され、大きな共同体を動かす権力を与
えられます。つまり財産を持ち、富んでいく事は、社会的な地位と密接な関連性の中に置かれている事を示すのです。富を熱望する人は、富を更に富ませていきます。それによって更に人間的価値を高めていきます。否、人間的価値があたかも高いかのように思われ、又そのように評価されていくのです。しかし「富」は単に裕福である事から離れ、人間の価値それ自体を規定し、生きる意味や、生きる価値への判断へと変わっていくのです。例えば、富む者はあたかも価値のある人のように受け止められ、社会的に受け入れられていきます。それは「重用される事」や「蔑ろにされる事」など、人から愛されるという要素にも踏み込んでいきます。富む者は愛され、注目を受け、財産を持つ者は、財産を持つという理由で人々から尊敬され、愛されていく。つまり「富」や「財産」は、所有物・物質的要素を飛び越えて行き、その人自身の価値を決め、その人が愛されるか否かまでも決めてしまう要素となってしまうのです。少々言い過ぎかもしれませんが、人間社会というのは、このような価値観の中にあると思うのです。もちろんそうでなはない価値を持っている人も大勢いるとは思います。しかし得てしてこの世が貨幣経済によって市場経済の原理で回っている現状を考えるならば、中世以来私たちの価値は、つまり人間的価値の多くは財産や富と密接に結びついてこざるを得なかったのではないかと思うのです。

 しかし聖書の言葉は実に良く確信を捉えているのです。そのような富は「虫に食われる」と言います。富は「錆びつく」、又、「盗まれる」と言うのです。これによって人間的価値を判断されてきたその前提となる物。その根拠となる物は、実は小さな虫に抵抗できず、経年劣化や時間に耐えきれず、悪い人の餌食になると言うのです。美しい価値ある衣類や反物は、虫に食われる事でその価値を失います。価値ある美しい工芸品も錆びつく事でその価値を落とします。家畜は病気に罹るし、備蓄していた穀物はカビや虫の害を受ける。株式投資は一瞬で破綻を招き、盗人は獲得した者を奪っていく。

 私たちがその人生のすべてを、否、人から受ける愛情なども含めてその全てを価値付けてきた根拠である「富」とはこんなものだ、と聖書は言うのです。まるでウィットに富んだジョークのように、富そのものの真実性を暴くのです。このような物と結びつくのが私たちの生きる意味であるならば、それは私たちの人生そのものを脆弱にするのではないか。もし私たちが、この富によって立もし倒れもするならば、私たちの人生とは一体なんだろうか。私たちの命とは一体なんだろうか。私たちが幸福に生きるとは、価値ある人生を喜んで生きるとはなんだろうか。その事を聖書は指し示すのです。私たちは、虫に食われ、錆びつき、盗人に奪われていくものと結ばれて生きるのではなく、神と結ばれて生きていくのだ。神と結ばれるということは、虫に食われ、錆びつき、盗まれる事のない物であり、神の価値の中で生きていく事に他ならない。財産の浮き沈みと共に人生も浮き沈んでいくのではなく、全き神の価値によって、神の栄光と共に、価値づけられていく。つまり天に富を積むとは、善行や徳を積んでいく事ではなく、あなたの富とは何か。あなたが最も心を込めて大切にするものとは一体何か。あなたの心の所在がどこにあるのか、その事を示すのです。だから21節で「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と言われるのです。これを言い換えると、あなたが最も心を込めて大事にしている物こそがあなたの富である。というのです。

 私たちは今日の御言葉を、私たちの財産をどこに貯えるのか、あとあとの事を考えて、善い行いをしておけば天国に行った後に良い事がある、と捉えがちでありましたが、しかしこの御言葉は、富の概念そのものを変えるよう促す言葉であったのです。つまり、あなたを救い、あなたを贖い、あなたを導く神ご自身があなたの財産であるのだ。神と共に生きる事こそが、私たちにとっての宝なのだ。聖書のこの言葉をしっかりと受け止めたいと思います。

(浦和教会主日礼拝説教 2012年4月29日)