マタイによる福音書8章1節-13節 『あなたが信じたとおりになるように』①

マタイによる福音書8章1節-13節 『あなたが信じたとおりになるように』 2012年7月15日


 イエス・キリストが語った「山上の説教」と呼ばれるものがありました。それは文字通り山の上で話された説教、訓話でありました。山の上では、たくさんの人たちがその話に聞き入っていたようです。お話しが終わると主イエスは山を下りました。しかしその教えに共感した人たちは、その後も一緒にぞろぞろとついて来たようです。
 マタイ福音書にとって「山」というのは特別な場所と考えられていました。山上の説教を語る場所としての「山」、そして主イエスの顔が光り輝いて、モーセやエリヤと山の上で話し合っていた、という事も又山の上で起こった出来事でした。このような非日常の出来事が山の上で起こったのです。
 しかし反対に、山を下るとそこは日常であり、日々の生活の場であります。人間同士の語り合い、支え合いなどの喜びと共に、人間関係のもつれや、厄介な日々の労苦が交錯する場でもあるのです。そのような日常の中で主イエスが一番最初に出会ったのは「重い皮膚病を患っている人」でありました。この人から病気を治してほしいという願いを受けるのです。この病気の症状や対処法はレビ記13章~14章に詳しく示されております。
 昔のユダヤ人たちの律法に従うと、「重い皮膚病」の患者は「伝染病の保菌者」と考えられておりまして、人と交わる事が厳しく禁じられていました。しかし実際、この「重い皮膚病」という病気が何を意味するのかは分かっていません。かつてこの言葉は「らい病」と訳されてきましたが、ここ数十年の研究で、これが我々の意味するところの「らい病」つまりは「ハンセン病」ではないという事が分かってきました。それで「重い皮膚病」と言い換えるようになったわけです。では現代的にはこれがどういう病気であるのか、という事は興味のあるところかもしれませんが、その辺りは不明であります。感染力のある皮膚病も、そうでない軽度の皮膚病も「重い皮膚病」に含まれていたようです。つまりここで言われているのは、単に感染力があるかどうか、病気の重さ、その症状が悪化しているかどうか、というよりも、もっと社会的な問題がこの患者を悩ませていたのではないかと考えられます。彼らの悩みを深くさせていたのは、肉体的な苦しみのみでなく、宗教的に「不浄な人たち」と呼ばれ、社会共同体から排除されて生きる事を余儀なくされる事でありました。つまり彼らは排除された者たちであり、アウトカーストでありました。社会の最下層民として生きる人、それが「重い皮膚病」の患者であったわけです。
 その最下層民に対して主イエスは、彼の懇願を聞き入れ、本来隔離されている筈の彼の体に触れ、「よろしい清くなれ」と言って、その病気を癒してあげたと記されています。不浄の民に御自ら近づいて、手を差し伸べる。それはあたかも、赦されざる罪を犯した我々のもとに近寄り、十字架によって「死に至る病」を取り払って下さった主イエスの姿を予期させるものでありましょう。
 このように一人の病人を癒した主イエスでしたが、その癒しの働きは次の話にも続きます。今度は百人隊長がでてまいります。百人隊長という事によって彼がローマ帝国の軍隊制度の中にあるという事が分かります。ローマの軍隊には10人一組の小隊である、十人隊、その上には100人一組の百人隊、その上には1000人隊、というのもあって、それを統率するリーダーがそれぞれおり、それを十人隊長、百人隊長、千人隊長と呼ばわれていたわけであります。つまりここに出てくる百人隊長は、位の決して低くない軍人であり、反対に、それほど高いともいえない、言わば「中間管理職」でありました。
 この百人隊長が、「わたしのしもべが中風で寝込んでいる」と言って、癒される事を懇願しています。この「しもべ」とは誰を指すのかは明らかではありません。これは「若者」や「青年」と訳される事も可能な言葉であります。ですから彼の身内や使用人である可能性も無くもないと思います。しかしここで「中風」になっているという事から考えますと、若者と言うよりも、もう少し大人の「百人隊に属する兵士」と考えた方がよさそうです。
 いずれにしてもこの百人隊長は部下思いの人であり、おそらく人望の厚い人であったように思います。この隊長の命令に従い、命を懸けて戦う一人の兵士の命に関して、この隊長はこれを放っておくことは出来なかったのでありましょう。
 そこに主イエスが通りかかります。この百人隊長は、最初に出てきた「思い皮膚病患者」のように社会から排除される者ではなかったのですが、しかしローマ人でありました。イスラエルの律法においてローマ人、つまり異邦人を宗教的共同体の中に入れる事はありませんでしたので、支配者であると共に「嫌われた者たち」であり、言い換えるならば自分たちの共同体から排除したい人たち、という事でありましょう。支配者でありながら近づかせたくない、というのは、不思議な感じもしますが、しかし支配者であった頃の日本軍に対する被支配者の思いや、在日米軍に対する複雑な感情を持つ沖縄の人たちなど、現在でもこのような複雑な感情は起こり得ます。
 とにかく、このような共同体外の彼の訴えを主イエスは聞き入れたのであります。百人隊長はこう言いました。「百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
 イエスはこの言葉を「立派な信仰である」と見做し、彼の願いを受け入れたのです。そしてその信仰の故に、しもべの病は癒されたのです。
 このような一連の癒しの出来事であります。主イエスの治癒行為、奇跡物語は聖書の中、とりわけ福音書の中には数多く出てまいります。そして私たちは今日の話を、「病を癒された」という事柄に関しては、何の疑問も無く受け入れる事が出来るのではないかと思うのです。
 
(続く)