マタイによる福音書8章1節-13節 『あなたがたが信じたとおりになるように』②

①の続きから

 しかし私はある二つの言葉に注目したいのです。
 それは最初の思い皮膚病患者の言葉です。彼はイエスに願い出るのですが、しかしこの彼の言葉が何とも奇妙に思えて仕方ありませんでした。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」この言葉を聞いて、おや?と思った方はおられるでしょうか。そうです「御心ならば、清くおできになります」という言葉それは一つの条件を提示して、ある一定の留保がなされているように思えるからです。
 この言葉は、素直に捉えるならば、全く揺るぎのない信仰的な告白であると言えるでしょう。「御心ならば」という神の御心によって全ての事が可能である神の御子イエス・キリスト、という告白であるからです。しかも多くの解釈者がこの言葉を「立派な信仰告白である」と理解しているのです。勿論そのように読むことが出来ます。それを間違いであると言えません。

 しかし私は、この言葉にどうしても引っかかってしまうのです。なぜ「御心ならば」と言ったのか、であります。つまり、ただ盲信的に、盲従的に主イエスを信じるならば、「主よ、あなたには癒す事がお出来になる事を信じています。」という言葉で良かったのではないか、と思うからです。しかしここで彼は「御心ならば」と仮定法を使い、「そうであるならば、出来るのですが‥」というニュアンスが込められているように思います。ですからここに示された「御心ならば」というのは、この患者が「自分はその癒しに価しないかもしれない」という気持ち、もしくは「主イエスの癒しへの少なからず起こる疑問」が示されているのではないかと思うのです。読み込み過ぎかもしれませんが、もしかすると彼は、癒されなかった事を考えているのかも知れません。彼は自分の体が重い皮膚病に罹り、絶望的になっていました。どれだけの年月の間、病に侵されていたかは分かりません。しかし彼は希望を持って主イエスの下に来た、と言うよりも、ある種の希望と共に、「もし主イエスでも駄目ならば、もう絶望的である」という彼の思いの表れがこの言葉に込められているのではないかと思うのです。ここに全幅の信頼を置いてしまうと、それが駄目だった時のショックの大きさ、絶望的な気持ちを、担保するように、そのような辛い気持ちが起こるかもしれない、というある種の疑いを捨てきれず、どん底に陥るかもしれない事から身を守るように、彼は「もし御心ならば‥」と言ったのではないかと思うのです。もし駄目なら、「主の御心ではなかったから、主イエスに癒されなかったのだ」「他の癒しの手段はまだある筈だ」というように、であります。この患者の躊躇いこそが、ここに示されているのであります。

 そしてもう一箇所、注目したい言葉は、百人隊長の依頼を受けた主イエスが言った「わたしが行って、いやしてあげよう」という言葉であります。日本語訳の聖書は数多くありますが、どの聖書を見てもこのような訳がされています。文語訳でも同じように「われゆきていやさん」と訳されています。もちろん文脈から考えてそのように読むことが順当かもしれません。

 しかし一方で、ある違った読み方をしますと、これを疑問文として理解する事も出来るのだそうです。つまり「私が行って癒すのか?」という疑問。もう少し付け加えますと「私が行って癒すべきなのか?」「私が行かなければならないのか?」という疑問文であります。これは大変面白い読み方ですが、辻褄が合うのです。つまり相手はローマ人ですから、宗教共同体の外側に属する者たちでした。ローマにはローマの伝統的な医療が発達しています。それはイスラエルのそれよりも明らかに進歩した当時の最先端の科学技術であったと思われます。ですから百人隊長の特権を使えば、イエス・キリストの癒しではなく、ローマの技術と財力でしもべを癒す事は、選択肢として最も順当なものであると言えるのです。

 ですからイエス様は、「え?私が癒すのか?」という意味でこのように言ったとしても、これは考えすぎと言うよりも、むしろ辻褄が合うと思うのです。人を癒す事に気の進まない主イエス、というのは、何となく受け入れがたいように思われるかもしれませんが、それは私たちがイエス・キリストの形を固定化しているからに他なりません。福音書の他の箇所には、シドン・ティルスの異邦人女性の懇願に対して「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」という言葉があるように、癒す事に気の進まない主イエスの姿は、聖書はいくつも報告しています。このように考えると、このローマ人への躊躇は、あって然るべきであると思うのです。

 しかしここで重要なのは、この百人隊長の信仰です。それは単に「信じています」という上辺だけの言葉ではなく、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」という告白です。これは自分が異邦人であり、ユダヤ的な救済や、恵みの中に居ない事をみずから宣言している言葉です。アブラハム・イサク・ヤコブの神、すなわちイスラエルの神の恵みは、私たちにないかもしれない。しかしこの神の救いの権威を主イエスが持っている、という事を宣言しているのです。ですから軍隊の上司が部下にトップダウンで命令系統が繋がるように、あなたの持つ権威が、あなたの命令によって、トップダウンで私の身に、すなわち私のしもべの身に起こるでしょう。という事であります。主イエスはこの大胆な告白を認めました。そしてそれを彼の信仰と捉え、受け入れたのであります。

 重い皮膚病の患者は、自分自身が疑いの中にありました。大丈夫か、本当に自分は神様の御心に適うのだろうか、という癒しに対する躊躇いがありました。そしてローマ兵の方では、主イエスの方に、躊躇いがあったように読む事が出来るとお話ししました。しかしこのいずれにしても、これらの躊躇いを打ち破ったのは、信仰でありました。重い皮膚病の患者は、これだけ躊躇しているにも拘らず、大胆に主イエスに近づきました。自分が社会的に排除される民である、という当時の社会通念や倫理を超えて、主イエスへの信仰を大胆に表したのです。「御心ならば‥」と自分の立場を留保していたにも拘らず、彼の行動はストレートなものでした。もしユダヤ当局に見つかっていたら、捕まってしまうかもしれません。しかしその障害を越えて彼は主イエスに近づいたのです。
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 同様に、百人隊長も同じく疑いがありました。それは神の側の疑いであります。言い換えるならば、この恵みが異邦人である自分にとって何の意味があるのか、どのようなものをもたらすのか、に対する疑問であると言っても良いかもしれません。彼はローマ兵ですから、このような自分が、神を信じるなど意味のある事名のだろうか、と神の側が思っているに違いない、とする疑いと理解することも出来るでしょう。

 しかし彼らの姿を見て思うのは、神を信じる事、神への信仰とは、まさにこのような歌がと迷いの中で起こる、動的な、ダイナミックな営みなのではないかという事であります。私たちは信仰を、見切り発車の出来事として捉える事は出来ず、固い信念に基づいて、ゆるぎない神への信頼が無ければ信仰者になる事は出来ないと考えがちではないでしょうか。
 でもそうではないのです。あの思い皮膚病患者や百人隊長のように、多くの疑問や疑念を超えて、「信じる」という一点においてのみ可能とされる営みなのであります。「信じる事」と「疑う事」は、信仰において相反する事ではありません。むしろあのイエスの12弟子のトマスが信じて疑ったように、あのヨブが、信じて疑ったように、預言者エレミヤが信じて疑ったように、私たちは疑いの中でさえも、神を信じる事が可能であるし、そうする事も又、信仰なのであります。
 今日の聖書には、信じた者たちが癒されました。それは単に医療的な治癒行為が成就された、という事だけではなく、神を信じる思いが、一つの姿をとって、その人の信じた、最も必要な形として与えられる事を示すのです。
 「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」。この言葉を信じて、この言葉に導かれて、ここに集うもの全てが、あなたの信じたとおりになるように、という主の宣言を受けるような信仰を持ちたいものであります。