マタイによる福音書8章28節-34節 『悪霊を追い払う主イエス』

 ≪①からの続き≫

 私たちは、最後の34節の「すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。」の一文だけを読む時、町の人たちは、主イエスの驚異的な力、神の権威に驚愕し、この人こそ私たちの主である、と告白しにやって来たに違いないと、とっさそう考えるでしょう。しかし状況は全く違っていました。彼らはイエスに出て行ってもらいたい、という事を依頼しに来たのでした。町の人たちにとってイエスこそが厄介者であると意思表示したのです。居てもらっては困る。邪魔だ。それが町の人たちが出した結論でした。

 それは、この町が異邦人の町であった事に原因があります。ユダヤ地方では豚は不浄な動物である為、家畜として豚を飼う事はありません。ですから豚が群れをなしていて餌をあさっている事から鑑みますと、これが異邦人の町である事が分かります。8章18節でイエスは、「舟に乗って向こう岸に行こう」と言っているように、イエス一行はガリラヤ湖の東側沿岸の町に来ているのであります。

 異邦人の町ですから、ユダヤの律法、特に食物規定が適用されません。つまり彼らは豚を食べても良かった。豚は彼らにとって大事な食糧であると同時に、財産でありました。ユダヤ人たちが羊の数によってその裕福さを誇示するるのと同じように、この異邦人の町にとって、豚をどれだけ所有しているかが、その人の裕福さを示すバロメーターになっていたのです。

 時に町の人たちは、人間の命よりも、豚の命を大切にしました。それは言い換えるならば、人間の裕福さの誇示と財産の所有が、人間の命よりも重たいという価値観の中に生きていた事を示しているのです。ですから町の人たちとしては、大量の豚が湖になだれ込むなどという事は、目を覆いたくなるような出来事であり、悪霊に憑りつかれた2人の命が救われるぐらいなら、大量の豚の群れが安全であったほうが良かったのです。

 聖書はこの物語で、人の救いは、例え財産を失っても何にも替えがたいものである、と伝えようとしているのかもしれません。あるいは、「神と富とに仕える事は出来ない」、というマタイ6章24節を敷衍する言葉として、これが読まれる事を望んでいるのかもしれません。いずれにせよ私たちは、この2人の男たちが、厄介者であるというレッテルを張られ、彼ら自身が加害者でありながら、被害者でもあるという非常に複雑極まりない状況の中で、彼らが必死に救いを求めている事を冒頭で確認しました。そのような混乱をきたした人間の心の状況や、もはや自分の力では如何ともし難く立ちはだかる内的な自己破壊的な暴力行為、それはまさに悪霊の仕業としか思えないような、人間の力の及ばないような自分の悪い行いに対して、福音は何を語り、何を伝え、福音は如何なる力をその者たちに及ぼす事が出来るのか、という事を示しているのであります。

 まさにそれは、人間の罪に対して、主イエスは何を語るのか、という事を示すのです。私たちの罪は主イエスによって取り払われました。ユダヤ人であろうとなかろうと、その力の及ぶ範囲は、異邦の地にまで広がっており、それはその人々が最も大事にし、価値あると考えている物(つまり豚の群れ)の価値を超えて、人の命、人の救い、すなわち我々の救いは如何なる価値ある物にも勝って価値ある物なのだ、という事をこの箇所は示しているのであります。悪霊の滅ぼし、罪の赦しと同時に、私たちを救おう救おうとなさる主イエスの力が象徴的に示されたのがこの物語なのであります・

 豚の群れの中に、悪霊が入り込み、悪霊に取り付かれた豚が、崖から落ちて死んでしまう。何とも無残な光景です。しかしこの出来事が象徴しているのは、「この世の財産よりも、一人の苦しむ命の方が、価値が高い」「この苦しむ命が救われる事は何と素晴らしい事か」という事を示しているのです。この悪霊に取り付かれた2人は、この世の中から見捨てられ、町の中に住む事も許されず、手枷、足枷によってその自由が奪われ、彼の苦しむ命を誰も顧みる事もなかった状態にありました。だから屍のように墓に住む事を余儀なくされたのです。しかしイエス・キリストは、この誰からも見放された小さな魂の価値を認め、その価値が、この世の価値よりも遥かに高い事を示してくださったのです。町の人たちは悪霊に憑りつかれた2人に手を焼いていた事でしょう。この2人が困難で凶暴な事を誰もが知っていたはずです。しかしこの男たちが癒され、正気に戻っても、町の人たちは彼らが癒され救われた事に対して無関心であります。ただただ大切な財産を守るために、「出て行って欲しい」とイエスに告げているだけなのです。

 私たちの生きる世の中も、これと大して違いは無いという気も致します。この世の財産と、それに基づくこの世の価値観の中で私たちは生活しています。格差が更に広がりつつあると言われるこの社会にあって、この世の価値に縛られ、それを守ろうと必死になる中で私たちは生きています。しかし今日の箇所で主イエスは私たちに告げるのです。「どんなに小さな者であっても、どんな財産よりも価値高く、尊いのだ」と。
 この箇所を、私たちは第三者として聞いてはなりません。この救われた2人に対して言葉を掛けるとすれば、私たちは何というでしょうか。「救われて良かったね。」と、あたかも彼らと私たちの間に何の関係もないように語り掛けるでしょうか。しかし良く考えてみてもらいたいのです。
 彼らは自分の意志であるか否かに拘らず人に危害を加える、その罪の故に人々から厄介者というレッテルを張られると同時に、彼ら自身も罪の被害者である人たちです。彼らは墓という自らの殻に閉じこもり、人との関係を遮断して生きているのです。時に孤立し、時に人を愛する事が出来なくなり、彼らは自らのうちに籠ってしまう。

 つまり私たちは、この2人と無関係に生きているのではなく、ともすれば私たちはこの2人自身ではないだろうか、と思わされるのです。自らの罪に囚われる私たち。しかしここに書かれている恵みは、この私たちをも解放して下さる神の恵みがここにあるのだ、という事であります。この2人の絶望的な人生を、うちに籠った孤独な命を、主の御前に引き戻し、主と共に歩ませようとされるイエス・キリストがここにおられるのです。  この恵みによって、私たちは生かされているのであります。