マタイによる福音書15章29節-39節 『神讃美と感謝の祈り』 2013年5月26日

  マタイによる福音書15章29節-39節 『神讃美と感謝の祈り』② 2013年5月26日

 ≪続き≫

 この群衆が異邦人であるという事から考えると、弟子たちからではなく、主イエスから空腹を満たしてやりたいと願い出ている事は納得がいくのです。つまり、弟子たちはここに来た群衆たちに対して、そこまで配慮する必要はないと考えていたかもしれません。異邦人なのだから、そしてイエス様がその苦しみに手を差し伸べて癒して下さっているのだから、もうそれで十分なんじゃないか、と。
 33節で「弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」と言っているこの弟子たちの返答には、「そこまで面倒見なくていいですよ、だって何も持っていないのですから」という意図が込められていたのかもしれません。

 しかしここで主イエスは、異邦人である彼らの空腹を満たすという奇跡を行なうのです。「ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ」とパウロが言う通り、主イエスはそこに隔てない恵みを与えられるのです。先週のカナンの女性の願いに対してイエスが、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と冷たくお答えになった事が記されていましたが、「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と願う異邦人に対し、イエスは食卓から落ちるパン屑をお与えになったのです。そして今日の箇所では、単なるパン屑ではなく、4000人もの大勢を養い、祝福し、命の糧を与えているのです。異邦人である事とそこに神の祝福が与えられる事は、決して切り離されるべきことではない、と伝えているかのようであります。その意味において、このカナンの女性の出来事と、今日の箇所は裏と表の物語として語られるべきものでしょう。

 このように4000人を養った主イエスですが、弟子たちはどうだったのでしょうか。ここには弟子たちの様子は「それを配った」という事しか描かれていません。主イエスがカナンの女性との出会い、そしてガリラヤ湖のほとりでの異邦人たちとの出会いを経て、主イエスが示そうとされる恵みと祝福の大きさに、私たちは心を柔軟にして主イエスに従う事が大切なのです。

 このような異邦人と共にする食事は、弟子たちにとってはおそらく初めての経験だったことでしょう。パンが増えることは既に14章にありましたが、ユダヤ人の言い伝え、ミシュナーと呼ばれる口伝律法によりますと、ユダヤ人が異邦人と食事をすることが禁じられています。ミシュナーは異邦人を「汚れた民」と教えているからです。食事はもちろん、共に交わりを持つ事も禁じられていました。もっとも、モーセの律法によると、レビ記や民数記では、ユダヤ人が異邦人と一緒に食事することを禁じていませんので、後に出来上がった律法ではあります。いずれにせよ、そのような慣習の中で育ってきた弟子たちだったので、異邦人と、しかも4000人もの異邦人たちと共に食事をすることは、彼らにとって初めての経験であ、しかしその心境としては、いたたまれないものであったと思います。これまでも徴税人や娼婦たちといった「罪人」と呼ばれていた人たちとの食事はありましたが、これらはユダヤ人でした。それに対して今日の箇所では周りを無数の異邦人で囲まれていたのです。熱心党のユダヤ主義者シモンは、「絶対に一緒に食事しない」と頑なに拒んだかもしれません。ペトロも同じだったかもしれせん。特にペトロは、ガラテヤ書2章11節で、異邦人と一緒に食事をするのを同胞のユダヤ人に見られる事を懸念して逃げて行ったと言われているぐらいです。当時の律法を頑なに守って生きていた者たちにとって、イエスの行ないはあまりにも逸脱したものでしたから、弟子たちは恐れていたと思うのです。

 今日の箇所を、マタイ福音書全体の大きな流れの中で捉えてみましょう。29節で、最初に主イエスが山の上に座られたとあります。14章の5000人の話の時は、イエス一行は舟を下りてすぐに平地で行なった奇跡でした。しかし今日の箇所では山に登ってしかも腰を下ろしているのです。マタイによる福音書では山は神の顕現される場所として捉えられます。この後起こる、山上の変貌の話が17章にあります。そして最も重要な場面は「山上の説教」です。イエスは、山に登り、腰を下ろし、そして語り出されたとあります。すなわちイエスの「言葉」を通して「神の意志」が啓示された出来事、それが山上の説教だったのです。それに対して、今日の箇所は、山に登り腰を下ろし、イエスの「行為」を通して「神の権能」が啓示された出来事であります。すなわちこの場面が、山上の説教との関連で読み解かれる時、そこには神の栄光が示されるのです。

 私たちは「御言葉を糧にする」と言いますし「人はパンのみによって生きるにあらず」という言葉を知っています。それは命のパンとしての御言葉こそが、最も重要であるという事が示された言葉です。しかしそうは言っても、空腹は命の問題でもあります。この世における生命の問題であります。死ぬほどに空腹の極限の人に聖書を読み聞かせても空腹が満たされる事はありません。しかし今日の箇所で主イエスは、その両方の両方を与えて下さると言っているのです。私たちは主の祈りの最初で「御名を崇めさせ給え、御国を来たらせたまえ」と主の国の到来を願う、いわば高尚な祈りから始めます。しかしそのすぐ後に「我等の日用の糧を今日も与え給え」と卑近な祈りをするのです。しかしそれらは決して分けて考えられるものではなく不可分なものである事を主の祈りは示します。そして主はその両方を与え、その両方に責任を持って下さる、という事が今日の箇所に示されているのです。

 主は民族主義的なところから人を養われません。主義・主張・文化・人種、と言ったような実に複雑で、問題を孕む人間の問題があるにも拘らず、しかしそこに主は立っておられないのです。如何なる場合でも、主は御言葉をお与えになり、その日の糧を与えられるのです。弟子たちが、いささかの抵抗を持っていたにも関わらず、主なる神は、それでも尚も、主のなさりたいように御言葉をお与えになり、その日の糧を与えて下さるのです。

(日本キリスト教会 浦和教会  主日礼拝説教 2013年5月26日)

マタイによる福音書15章29節-39節 『神讃美と感謝の祈り』 2013年5月26日

 マタイによる福音書15章29節-39節 『神讃美と感謝の祈り』① 2013年5月26日

 この箇所を最初に読んで思いますのは、あれ?4000人?5000人じゃなかったっけ?という疑問です。マタイ福音書では14章に5000人の群衆の空腹を満たす奇跡についてすでに語られていました。この箇所はいわゆる5000人の給食、という言い方がされていますが、今日の箇所は4000人です。多くの人はこれを見てマタイは同じ話を間違って2度記したのか、もしくは強調するために似たような話をもう一度書いてみた、と思うかもしれません。聖書をある程度知っている方に「大勢の群衆の空腹を満たす」というキーワードで連想するものは「5000人の給食」であり、決して「4000人の給食」ではないでしょう。試しに「5000人」と「給食」キーワードからインターネットで検索して最初にヒットしたのは、主イエスの5000人の給食であり、5つのパンと2匹の魚に関する事でした。それに対して、「4000人」と「給食」で検索してみると、トップ記事に出てきたのは「トルコの学校給食で無料で牛乳を配布したところ4000人が食中毒になった」という似ても似つかぬ話でした(笑)。

 それが証拠というわけではありませんが、私たちは大勢の人々の空腹を満たすと言えば「5000人」というイメージがあると思うのです。しかしこの話を詳しく読んでいきますと、それがイメージ先行である事が分かり、むしろ私たちはこの4000人の給食の物語の内容の深さに驚くのです。そしてある一面から言うならば、5000人の給食の話よりも、むしろ今日の箇所の方が聖書全体にとって意味のある、主イエスの歩みにおける転換点であると受け取る事も出来るぐらいなのです。今日はその事を考えつつ、共にこの箇所から御言葉に聞きましょう。

 先週の箇所で主イエスは、カナンの女性に対する癒しを行ないました。それはイスラエルのだいぶ北の方であったと思われます。そして今日の箇所ではイエス一行は南下してガリラヤ湖のほとりに帰ってきたのです。そこには多くの群衆が集まってきました。30節「足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。」。すなわちこの時イエス様は多くの群衆たちの、様々な体に癒しを行なっていたのです。

 5000人の給食の話では、時刻は「夕暮れになった」とあるように、群衆を解散する時に行なわれたのが5つのパンと2匹の魚の出来事でした。それは空腹のまま薄暗くなったところを帰らせたくないという思いがあったからです。この時の状況は14章15節にあります。「夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」

 ここで「食事を与えたいと」という事を申し出て、群衆に配慮したのは「弟子たちであった」と書かれています。しかし今日の箇所15章32節では「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」 このように言われており、この時、イエス側から群衆の空腹を満たしてやりたい、と申し出たのです。
 一方は弟子たちが配慮し、もう一方では主イエスが配慮している。それ自体は何ら不思議な事ではありません。主イエスも、弟子たちも、集まってくる群衆を大事に思っているわけですから、むしろこのような配慮をお互いにし合うのは大切な事です。

けれども、ここで弟子たちではなく、主イエスから言い出したのにはわけがありました。それは「籠」であります。5000人の給食の話では12の籠がいっぱいになった、と書かれており、今日の箇所では7つの籠がいっぱいになった、とあります。ですから同じように籠が満杯になるほどに、祝福もいっぱいになったという事が示されているわけです。しかし実はこの籠という言葉、違う単語が使われています。5000人の方では「コフィノス」という言葉、4000人の方では「スピリス」という言葉です。勿論両方共に籠である事には変わりはないのですが、5000人のコフィノスは、ユダヤ人が旅をする時に食べ物を入れるために使っていた籠でありまして、それには覆いが付けられていました。何故おおいが付くかと言うと、ユダヤの律法に従って、異邦人の地にある塵や埃が入らないようにするために蓋をする事が必要だったのです。それに対して4000人の方の籠スピリスにはおおいはありません。かなり柔軟性のある大きなかごで、品減でも入ってしまうほどの大きさであったそうです。そしてこれにおおいが無いのは、異邦人の土地の塵や埃が入っても構わない、つまりそのような律法に従わなくて良い人々が使うものであったからです。ですからこれは、異邦人が使う籠なのです。

 ここにいた群衆とは「異邦人」でした。ガリラヤ湖北部地域は、西側がユダヤ、東側が異邦人が住む土地でありましたから、恐らく東側の山で起こった事なのでありましょう。そこに異邦人の群衆がたくさん集まってきたわけであります。

 新約聖書学的な言い方をすると、12の籠と7つの籠という数についてもそれを表しているとも言われます。12はイスラエル12部族を表しており、これがユダヤ人である事が分かる。それに対して7と言うのは、70の異邦の国々であるとか、使徒言行録にあるような、ギリシャ人への配慮をするために選ばれた7人の執事を示しているとも言われます。つまり7が異邦人の象徴であると考える事が出来るわけです。そもそも5000人の「5」という数はモーセ五書の象徴でユダヤ人を示し、4000人の「4」という数字が、東西南北の方角、四方八方の異邦の国々を示しているのである、と解釈する事が出来ます。エゼキエル書やダニエル書でも4という数字が全世界を表わす幻について語られている通りであります。