7月5日の説教から 『わたしだ、恐れることはない』 ヨハネによる福音書6章16節~21節

                                  <75日の説教から>

             わたしだ、恐れることはない
              ヨハネによる福音書616節~21        
牧師 三輪地塩
 V.フランクル『夜と霧』の一節。「いつガス室に送られるか分からない、ギリギリの精神状態の中にあって、食欲や睡眠欲のような生物レベルの生きるための欲求以外、高次の欲求は全て消えていった。しかし「政治」と「宗教」への関心だけは失われることはなかった。とりわけ感動したことは、居住棟の片隅で、あるいは作業を終えて、ぐっしょりと水がしみ込んだぼろをまとって、くたびれ、おなかをすかせ、小声ながらも、・・締め切った家畜小屋の闇の中で体験する、ささやかな祈りや礼拝に(感動を覚えるの)であった」。そうフランクルは回顧している。また彼は、自分の命を繋いだもう一つのものが「愛する者の存在であった」と言い次のように語る。「愛する者(妻)が同じ収容所に「いる」という現存(Dasein(ダーザイン)[])、この愛する者がいるという現存の中にこそ、自分の生きる意味があり、その愛する者の微笑みを思い浮かべる時、人間の命の愛おしさを覚えたのであった。・・多くの思想家たちが、生涯の果てに辿り着いた真実。何人もの詩人たちが歌い上げた真実、(つまり愛)という真実が、生まれて初めて骨身にしみた。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだという真実。いま私は、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきことをしてきて、究極にして最高の事の意味を会得した。愛により、愛の中へと救われること。人はこの世にもはや何も残されていなくても、心の奥底で愛するひとの面影に思いをこらすことこそが、究極的な至福の境地となるである」。
 つまり、究極的絶望の中、愛する者(妻)の存在が彼の命を繋いだのであった。一人の愛する者の「実存」「現存」「Dasein」が彼の心に生き、その面影と彼女の存在が共に彼の内に生きる時、命は保たれ、収容所を出るまで希望失うことなく、希望を持ち続けることが出来たのであった。
「愛する者の現存」という言葉の中に我々は「キリストの現存」を見出すものである。しかも我々が愛する、より以上に、「我々を愛して下さる方がいる」というDaseinが、我々の中にあるとき、我々は希望と共に生きることが出来るのである。その存在は我々に語る「わたしだ。恐れることはない」(ヨハネ620節)と。

 つまり、荒れ狂う湖上に現れたキリストの「わたしだ」(エゴーエイミ)という実存、現存、Daseinの中で、すなわち人間が如何ともしがたく抗う事の出来ない、無抵抗にも押し流される不幸や、痛みや、究極的な悪の中にさえも、神は現存し、私を愛する神がいるというDaseinの中で、私は「私の希望」を失うことなく、この命が神と共にある命として生き続けることが出来るのである。人間社会の暗闇の中で、人間関係の難しさの中で「我れ」と向き合う私の心の中、そしてアウシュビッツの中でさえも、主は我々かたわらに立たれる。それがキリストなのである。

 荒れ狂う湖上にキリストは立つ。それは私たちと共にキリストが立つ事のしるしであり、実存であり、キリストという現存の表れである。おそれを沈めるキリストは、恐れと共に生きて下さるキリストとなって、私たちと共に歩んで下さるのである。