6月21日の説教 ヨハネによる福音書5章41節~47節

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神から受ける誉れ
            ヨハネによる福音書541節~47
                 牧師 三輪地塩
 この箇所で印象的な言葉「誉れ」は『大辞林』で調べると「ほめられて世間的に光栄であること。評判のよいこと。名誉」とある。評判、名誉、称賛、つまり周囲からの評価ということである。聖書では「誉れ」と訳された単語は「ドクサ」というギリシャ語が使われており、「栄光を受ける」という意味である。礼拝の最後にいつも歌う讃美歌のことを「頌栄」と呼ぶが、この「頌栄」という言葉が英語で「ドクソロジー」と言う。頌栄とは本来的に「三位一体の神に栄光を帰す」という意味であり、また頌栄の目的でもある。
 イエスは当時の民衆たちに対し「あなた方は周囲の人からの賞賛を受けることには一生懸命になるが、神からの誉れを受けようとする態度を見せない」と嘆いている。イエスのいう「真実の誉れ」とは、人々からの賞賛ではなく、そこから程遠いものである。イエスが十字架にかかり、憎しみと嘲りのなかを生きそして死んでいったように、そこにこそ「誉れがある」といわれる。明らかに逆説的な「栄光・誉れ」であるが、イエス・キリストという神の御子であるメシアが、卑しく低い立場(犯罪人)と同じくなり、卑賤のメシアとして限りなく低いところで死んでいったのである。この卑賤のキリストにこそ、神の栄光が輝いていると聖書はいう。
 だがここに希望がある。我々人間の生きる意味や目的はどこにあるだろうか。我々の人生ではたびたびその本質が問われるものとなる。賞賛や評価を勝ち取ることは決して間違いではない。しかしそこに「のみ」心を向け、目的と意味をおいてしまうならば、それを失ったとき、その命の存在意義自体を失ってしまいかねないのである。「評価されないわたしなど“生きる価値すらないのだ”」と。しかしキリストはそこに人間の命の価値をみいださない。我々の価値は、人からの評価や賞賛(つまり「誉れ」)にあるのではなく、限りなく低く生きてくださったキリストと共に生きることにこそあるのだ。

7月12日の礼拝予定

主 日 礼 拝    午前10:3
    奏楽
<神の招き> 
招 詞  ヨシュア記15  
*讃 詠   (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編3816節~23
*讃美歌  (21)18【12
 
<神の言葉>
聖 書   出エジプト168  (旧約P.120)
     ヨハネによる福音書622節~33
                         (新約P.175)
祈 り              雄                                                                                                                                                                                  
*讃美歌  (21)130
   永遠の命にいたる食べ物     
                
 
<神への応答>
*讃美歌  (21)462
*ニカイア信条
 讃美歌  (21)401
公 告
*献金感謝           
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
後 奏    
 
「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は
お座りのままでどうぞ。