<2016年11月27日の説教から>【あなたも弟子の一人ではありませんか】

<2016年11月27日の説教から>
『あなたも弟子の一人ではありませんか』
ヨハネによる福音書18章15節~18節
牧師 三輪地塩
 東洋医学では「未病」と呼ばれる状態がある。西洋医学の{疾病」に限りなく
近い状態でありながら、一応健康を保っている「病気に近い健康状態」ということだそうだ。これは「罪」の次元においても似ている。
 ペトロは命を捨ててでも付き従っていきます、と主イエスに宣言した。しかしそう豪語しながら、あっさり「違う」と、イエスとの関係を捨てたのであった。
 四つの福音書のどれもがこの「ペテロの拒否」のエピソードを伝えているが、特にヨハネ福音書は独特な形式をとっている。話が一旦途切れているのである。
 私たちにとって信仰とは、いつも直接法で語られ、自らの主体性の中で自分の告白として言い表すものである。しかしペテロが主を否み「違う」と言ったその瞬間、彼は主イエスにしたがう主体者ではなく、客体者(傍観者)になったといえる。彼は主イエスの痛みを、自分の痛みとして受けるつもりで大祭司邸宅に入ったのだが、彼はイエスとの関係を「違う」と否定した。彼は無自覚に主を否定したであろうが、罪において「病」に罹ったのである。キェルケゴールが「死に至る病」と言った我々の罪。この罪が死に至る病であるならば、無自覚に罪に生きていたペテロは大祭司邸に入ったとき既に「罪の未病」(未罪)の状態であり、「違う」と否定した時、いよいよ「死に至る病」の状態になったと言える。
 ヨハネ福音書が、18節で場面を転換し、その後、鶏が鳴くまで「暫しの猶予」を与えているのは、「立ち返れ」というメッセージが込められているからだろう。つまり、我々もまた「未病」の状態であり、いつどちらに転ぶか分からない状態であるからだ。我々は、主に従うのか、あるいはそのように告白しながら傍観者となるのか。その瀬戸際を歩む「未病の民」であり、「未罪の民」である。クオ・ヴァディス「主よ、どこへ行かれるのですか」(ヨハネ13章36節)というペテロの言葉は、私たちは主と共にどこに行こうとしているのかが示される言葉でもある。イエスが度々語られたのは、十字架のない信仰、十字架を飛び越えた救いの無益さ、であった。我々は、今一度、この時ペテロに与えられた状況を、自らのものとして受け止めたいのである。