<2017年1月8日の説教から>『真理とは何か』

<2017年1月8日の説教から>
『真理とは何か』
ヨハネによる福音書18章28節~38節a
牧師  三輪地塩
 イエスの裁判の場面である。ローマの総督のピラトは、37節で「それではやはり王なのか」と三度目の質問をしている。「ユダヤ人の王ではない」とイエスに答させ、
政治違反の罪で「不起訴」にしようとしていたからである。しかしイエスは、イエスともノーとも答えず「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」という曖昧な答えしかしていない。
 
 この箇所の難しいところは、この最後の部分にある。
イエスのいう「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」
という回りくどい言い回しは、ギリシャ語の慣用句としては「(あなたの言う通り)私は王である」の意味に解釈できる言い回しであると言われる。それゆえ口語訳聖書ではこれを肯定分として翻訳し「イエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、私は王である」(口語訳)と肯定文で訳している。
しかし本来、このイエスの答えは、曖昧にすべきなのではないかと思う。つまり、イエスはこの言葉を肯定でも否定でも語っておらず、質問者の意志を問うているのだ。
 弟子のペテロは「私を誰と言うか」に対し「あなたはメシアです」という信仰告白をした。それと同じように、この箇所でイエスが問うのは、「私を誰と言うか」である。
ピラトはここで第三者として、傍観者として、観客席にすわってイエスを批評し、裁こうとしている。だがイエスはそのピラト自身の主体性を問うのである。「あなたは 私を誰と言うか」と
 ピラトは、イエスの罪を見つけることはできなかった。それはピラト自身の善意から、彼の道徳心によってイエスを処罰したくないと思わせたのかもしれない。
だが善意や公平さのような倫理道徳観では、真のメシア・キリストと出会うことは出来ないのだ。信仰の告白、真理を語る方の、真理に耳を傾けることが出来るか、
それは、我々の主体性の中にあるからだ。