<2017.03.05の説教から>【なぜ泣いているのか】

<2017.03.05の説教から>
『なぜ泣いているのか』
ヨハネによる福音書20章11節~18節
牧師  三輪地塩
 復活のイエスのもとに喜び駆け寄ったマグダラのマリアは
       冷たい言葉を掛けられている。「わたしにすがりつくのは よし
       なさい(17節)」と。こんなひどいことを言わなくてもいいじゃ
       ないか、と思ってしまう。しかしイエスは、その理由を「まだ父
       のもとへ上がっていない」というのは「昇天」をしめしている。
       イエスの復活は、イエス自身だけの復活ではなく、我々の終りの
       時の復活を示している。イエスは「わたしの父の家には住む所が
       たくさんある。…行ってあなたがたのために場所を用意したら、
       戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。」(ヨハネ14:2)
      と約束されている。つまり、マリアに「すがりついてはならない
      (「すがりつく」は英訳でholdと訳される」と命じるのは「ただつかまれたく
      なかったから」ではなく、抽象的な意味で「すがりつく・つかむこと」
      を禁じているのである。イエスにすがりつくことは、この場所に
      イエスの復活の栄光をとどめておくということが暗示されている。
      「山上の変貌」で、モーセ、エリヤ、イエスの光り輝く姿を目にした
      ペテロが「ここに3つの仮小屋を建てましょう」と提案し、この世に
      イエスの栄光をとどめようとした事に似ている。イエスの十字架を
      考えず、栄光だけに目を留めるペテロをイエスはお叱りになった。
      十字架を見失って栄光だけを留めることがあってはならない、と。
      神の計画は人間の思惑の中で進められるのではなく、目に見え
      て美しいことや、素晴らしい事だけをその場所に留めてはならない、
      と、イエスは言うのである。神の計画は神ご自身の主体的行為で
      あり、その主体的行為こそが、我々への救いをもたらすのである。
      救いに人間は関与せず、神のみが為し給う。