<3月19日の説教から>
『Εἰρήνηとשָׁלוֹם』
ヨハネによる福音書20章19節~23節
牧師 三輪地塩
復活の主イエスが弟子たちの真ん中に立ち「あなたがた
に平和があるように」と話しかけられた場面である。
聖書はこの時の「平和」という言葉を「Εἰρήνη」(エイ
レーネー)と記している。ギリシャ語のΕἰρήνηは、「民
族や国家間の調和」や「心の平穏」を意味する。だがここ
でイエスは、ギリシャ語ではなく、ヘブル語で(厳密に
はアラム語で)そう言われたのである。それこそが「שָׁלוֹם」
(シャーローム)という言葉である。
「シャーローム」は挨拶にも使う語であり「こんにちは」
「さようなら」でも用いる。ここで考えたいのは、Εἰρήνη
とשָׁלוֹםが同じ「平和」を表すと共に、ある部分におい
て異なる概念を持っているという事である。
シャーロームは、「שָׁ」(Sh・シェン)、「 ל」(L・ラメド)、
「ם」(M・メム)の3文字によって成り立つが、この3つの
文字によって「健全さ」「完全性」という意味が生まれる。
そこから「友情」「健やかさ」「健康」「安全」「救い」とい
う幅広い意味がシャーロームの概念に含まれるのである。
例えば「シャーローム」には「健康と繁栄を含む完全な
幸福」という意味があるが、それは「神から与えられた賜
物」としての「健康と繁栄」、つまり「人間が自分の力で手
に入れ、奪い取った健康と繁栄」ではなく、あくまでも「神
から与えられた「グッド・ヘルス」」という意味である。
この場面、弟子たちは「部屋の鍵を閉めていた」とある
ように「心の内の鍵」「心の閉ざし」の中にいた。彼らは イエスの死と共に「霊的な命を失った」状態にあった。だが
そこにイエスは「シャーローム」という言葉と共に、「友情」「健やかさ」「健康」「安全」「救い」などの多くの意味 を持つこの言葉と共に、――喪失感によって精神さえも病 んでいたかもしれない虚ろな弟子たちの前に――、、主は「シャーローム」と言われ、立たれたのである。そこに「復活」の真の意味が示される。
迫害者から狙われる事を恐れ、息をひそめて逃げ隠れて
いる弟子たちの真ん中で、主は「シャーローム」と立ち給
う。単なる「平和の挨拶」ではない。究極的な痛みや苦
みの中にさえも、主の平和、主の平安、主の救いが共に居
られることの確信がここにある。マタイ福音書1章の「主
我らと共に居まし給う」(インマヌエル)とはこの事である。