2017年3月19日の説教から

 <319日の説教から>
            Ερήνηשָׁלוֹם
     ヨハネによる福音書201923
                     牧師 三輪地塩
 
  復活の主イエスが弟子たちの真ん中に立ち「あなたがた
 に平和があるように」と話しかけられた場面である。
 聖書はこの時の「平和」という言葉を「Ερήνη」(エイ
 レーネー)と記している。ギリシャ語のΕρήνηは、「民
 族や国家間の調和」や「心の平穏」を意味する。だがここ
 でイエスは、ギリシャ語ではなく、ヘブル語で(厳密に
 はアラム語で)そう言われたのである。それこそが「שָׁלוֹם
 (シャーローム)という言葉である。
  
  「シャーローム」は挨拶にも使う語であり「こんにちは」
 「さようなら」でも用いる。ここで考えたいのは、Ερήνη
 とשָׁלוֹםが同じ「平和」を表すと共に、ある部分におい
 て異なる概念を持っているという事である。
  
   シャーロームは、「שָׁ(Sh・シェン)、「 ל(L・ラメド)
 「ם(M・メム)3文字によって成り立つが、この3つの
  文字によって「健全さ」「完全性」という意味が生まれる。
  そこから「友情」「健やかさ」「健康」「安全」「救い」とい
  う幅広い意味がシャーロームの概念に含まれるのである。
  
   例えば「シャーローム」には「健康と繁栄を含む完全な
  幸福」という意味があるが、それは「神から与えられた賜
  物」としての「健康と繁栄」、つまり「人間が自分の力で手
  に入れ、奪い取った健康と繁栄」ではなく、あくまでも「神
  から与えられた「グッド・ヘルス」」という意味である。
 
   この場面、弟子たちは「部屋の鍵を閉めていた」とある
 ように「心の内の鍵」「心の閉ざし」の中にいた。彼らは   イエスの死と共に「霊的な命を失った」状態にあった。だが
そこにイエスは「シャーローム」という言葉と共に、「友情」「健やかさ」「健康」「安全」「救い」などの多くの意味 を持つこの言葉と共に、――喪失感によって精神さえも病 んでいたかもしれない虚ろな弟子たちの前に――、、主は「シャーローム」と言われ、立たれたのである。そこに「復活」の真の意味が示される。
 
  迫害者から狙われる事を恐れ、息をひそめて逃げ隠れて
 いる弟子たちの真ん中で、主は「シャーローム」と立ち給
 う。単なる「平和の挨拶」ではない。究極的な痛みや苦
 みの中にさえも、主の平和、主の平安、主の救いが共に居
 られることの確信がここにある。マタイ福音書1章の「主
 我らと共に居まし給う」(インマヌエル)とはこの事である。