2017.05.14の説教から

514日の説教から>
『知る力と見抜く力』
    フィリピの信徒への手紙13節~11
                牧師 三輪地塩
 
「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」
 
パウロは感謝と共にフィリピ書を語り出す。だが、いくら良い関係が築かれていたとしても何らかの問題を抱えているはずである。実際フィリピ教会は幾つかの問題を抱えていた。フィリピ教会は我々の教会と同じく「完成しつつある過渡期にある教会」なのであった。
 
パウロはこの時、恐らく肉体的に弱っていたと思われる。ここには「監禁されているときも・・・」とある通り、彼はエフェソでローマの官憲に拘束され、牢に入れられていたと考えられている。「福音を弁明し立証する」というのは、裁判や尋問を受けたことを示唆している。このときパウロは苦しく、体の痛みを覚えていた。心も痛み、憂鬱だった。だがそのパウロは「私の神に感謝し」と、「神への感謝」を述べている。
 
我々は人間的な思いではなかなか感謝できない者たちだ。聖書は「感謝」を「信仰の出来事」と捉えている。「真の感謝」は、「神を讃美すること」であり「神を告白すること」でもある。我々が利益を受けたから感謝し、不利益を受けたから感謝しない、という次元ではない。感謝は「人間同士の事柄」に留まらず、神を告白し、神を讃美する、という意味を含んでいる。神への感謝は、自分の気分次第で行うものではなく、神への信仰告白としての感謝、讃美としての感謝が成立するのである。
 
それは礼拝の出来事に繋がっている。礼拝は、御言葉の語られるところであると同時に「讃美する場所」であり、「信仰告白する場所」である。そこには神への感謝が捧げられるのである。具体的な捧げ物や、祈りとして感謝が捧げられる。絶えず神をほめたたえる生活。それこそが感謝の生活である。パウロが苦境に立たされても感謝できたのはそのためである。神を礼拝し、神への信仰を表す事から、私たちの神への感謝の生活が始まる。