2017.06.25の説教

  
  
      <625日の説教から>

                    『キリスト讃歌』

              フィリピの信徒への手紙26節~11

                                   牧師 三輪地塩

 ここでは「へりくだる」ことについて述べられている。「何事も利己心や、虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分の事だけでなく、他人の事にも注意を払いなさい」と。日本人の持つ美徳の一つに「謙虚さ」「へりくだり」がある。だが、美徳であると同時に「消極さ」にも繋がってしまうものでもある。フィリピ書が語る「へりくだる」事は、必ずしも「控えめであること」ではない。単に「事を荒立てず」「失う事を恐れ」「何もしない」というのは、信仰においては「へりくだり」とは言わない。

 マタイ福音書25章「タラントンの譬え」はまさに消極さゆえに神に叱責されるという話である。1タラントンの者は、それを失う事を恐れて、土に埋めてしまった。信仰とは、「心の土」に埋没させるものではなく、それを「用いる時に花開き、実を結ぶのだ」とイエスは言う。それを埋没させるならば、その信仰と言う輝かしい財産は全て没収されてしまうのだ。それが「タラントンの譬え」である。

 天の国とはまさにこのようなものである。自分に自信がないことも又その人の個性かもしれない。だが神はあなたに「タラント」と与えている。キリストが十字架に架けられたのは、消極的に命を用いたのではない。神からの使命と、自らの愛の表出としての十字架であった。我々はこのようなへりくだりの信仰を、積極的に歩みたい。