2017.10.22~28 今週の集会

2017.10.22~28

  

今 週 の 集 会

 

祈祷題「宗教改革記念日を覚えて」

    「オープンチャーチのため」

浦和教職者会(浦和ブレザレン)  23日()10:00

聖書の学びと祈り          26日()10:00

     列王記上15章(担当 三輪地塩) 司会 須田 美奈子                 

〇聖書の学びと祈り           26日()14:00

    ガラテヤ書111節~24節    担当 大 和 文 彦

               

 

2017.06.18の説教から

 
     <618日の説教から>
                 『互いに謙虚であれ』
             フィリピの信徒への手紙21節~5
                                     牧師 三輪地塩
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」2:1)。ここに「神、御子、聖霊」の三位一体が表わされている。三位一体の神とは「父、御子、聖霊の神が、その存在において孤独ではなく、互いに愛の交わりの中に生きて働かれる神である」ことを意味している。また「神が三位一体の中で、他の何者をも必要とせず、人間の手を借りず、人間の側からのフォローなしに存在し得る神である」という事でもある。「三位一体」という教理は知っているが、自分の信仰生活とはあまり関係ない、と考える人も少なくないかもしれないが、そうではない。神が三位一体の神であることは「神ご自身がそれ自身で成り立ち、他の何者の介在を受けることなく、誰の助けも必要とせずに存在する神である」ということ、つまり「神の主権の中に神が生きており、神の主権の中に我々が生きていること」を信じさせる神なのである。
我々は、国民主権や基本的人権などが確証された国家に生きている。だが国家や共同体は、人間の思惑・利益・思想などによって、如何なる姿にも変容し、変質し、歪曲され、不義が生まれてしまう共同体にもなり得るのである。国民主権など言いながら、国民の生活を管理と監視の目で脅かし、治安維持のためになら何でもしかねない。国家という共同体はその実情では、国民主権ではなく「国家主権」「国家の利益主権」で動くのである。国家にとっては「国家の利益」が「善」であり、そのためには、小さな人間の命や生活権は少々奪われても構わないと考える。それが巨大な構造悪ともなり得る「国家」である。当然権力者が人間である故にミスリードもしばしば起こる。
 しかし、我々の信じる神において、主権者が三位一体なる神であると語りうる時、そこには人間が介在しうる余地は無いのである。神自身が、父・御子・聖霊の働きによってこの世を創造し、この世を愛された。三位一体なる神が主権者であるということは、我々自身が、孤独ではなく、それぞれの価値を否定されず、個々の命を大事に愛される神と共に生きる、ということを示すのである。
 

2017.10.22主日礼拝予定

2017.10.22       

         主 日 礼 拝  午前 10:30
                     司式 安 井 国 雄
                     奏楽 板 垣 玲 子


招 詞  詩編96編1節~2節 
*讃 詠 (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編32編6節~11節
*讃美歌  (21)16(1-3)

         <神の言葉>
聖 書 出エジプト記3章7節~12節 (旧約P.97)
    コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章16節~18節
                (新約 P.329)
祈 り                                                                 
*讃美歌  (21)390
    
 説 教 「主がなされる事。私たちにできる事」          
                     野 田 沢 
    
          
         <神への応答>

*讃美歌  (21)458
*十 戒
 公 告  
*献金感謝
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
*後 奏