2017.09.10の説教から

        <910日の説教から>
         『あなたがたの益となる豊かな実』
         フィリピの信徒への手紙415節~23
                           牧師 三輪地塩
 フィリピ書の最後は、締めくくりの「挨拶文」である。ここには、個人名は語られず2人称複数・3人称複数に対する挨拶となっている。例えば、ローマ書の最後の16章には、28名もの個人の名前が呼ばれ、それぞれに「宜しく」と書かれている。これに対してフィリピ書には個人名が出てこない。しかしそのことによって「パウロがフィリピ教会の信徒たちに手を抜いていた」とか、「個人個人のことを忘れている」と考えるのは早計である。すなわち、重要な事は「エン・クリストー」「主にあって」「キリストに結ばれて」というところから教会は始めなければならない、という事であろう。
 
 最後に、「よろしく」という言葉が3回出てくる。「宜しく」とは「挨拶する」であり、英訳聖書では「Greet」(グリーティングカードのグリート)と訳されている。挨拶には、時に社交辞令としての挨拶などもあるが、挨拶は人間のマナーであり、人間の礼儀と言うことが出来るだろう。だが、教会において挨拶は「他者存在の是認」である。言い換えるならば、相手に対し、「あなたは確かに、ここに存在していますよ」、という事を、自他共に認める作業、それが「挨拶」といえる。演技の練習や独り言でない限り、誰も居ないのに「こんにちは」とか「おはよう」とは言わない。挨拶は「ここ・そこ」に「誰かがいるから」行う、存在と安否を確認する作業である。
 
 挨拶を大切にしない国や民族はないだろう。多少の違いがあったとしても、挨拶は世界共通の初歩的・初期的なコミュニケーションである。「こんにちは」の中に、安否の確認があり、意志の疎通がある。聖書にも、神が人間に語られるとき、まず人間を呼び、挨拶から始まる箇所がたくさんある。受胎告知の時、乙女マリアに天使ガブリエルが「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」「マリアは戸惑い、この「挨拶は」何のことかと考え込んだ。」とある。この挨拶は、単なる意志伝達の道具でなく、「神がそこに存在する」という事の証しである。パウロは、この「宜しく伝えて下さい」という言葉を3度も繰り返し、神の存在を確認しつつ、この書を締めくくるのである。