2018.04.15 礼拝説教から

415日の礼拝説教から>
『ヘロデとヘロディア』
マルコによる福音書614-29
                 牧師 三輪地塩
 へロデが自分の誕生日を盛大に祝っていた時、娘サロメが入ってきた。たくさんの人を前にして気が大きくなったのか、或いは何でも願いを叶える良い父親を家臣の前で演じたかったのか。みんなの前で踊ったサロメに対し、「お駄賃」とばかりに、「何でも好きな物が願うがいい」と固く誓ったのであった。サロメの願ったものは、洗礼者ヨハネの処刑であった。
 
 これにヘロデは困惑する。その理由は「洗礼者ヨハネが民衆の人気を集めていたから」であるが、もう一つ理由がある。それは、ヘロデ家の家系に関することであった。
 ヘロデの祖父はエドム人、祖母はアラビア人、母はサマリア人であった。つまりヘロデ家は、ユダヤの血筋ではなく、異邦人家系である。当然、ユダヤ血筋を大切にするユダヤ人たちからは嫌われた。
 だが、洗礼者ヨハネは、律法はすべての者たちのためにある神の掟である、とし、ヘロデ家の者たちを、血筋によって差別的に扱わなかったのであった。それゆえ、ヘロデはヨハネに対し「正しい聖なる人である」(20節)と信頼を置いており、処刑せずに投獄したままにしておいたのである。だがサロメに誓ってしまった手前、ヨハネの処刑は執行されてしまうのであった。
 ここで聖書が、614節以下で「ヘロデ」という固有名詞を使っているのに、22節から「王」という一般名詞に変えていることは注目に値する。これは偶然、たまたま、ではない。明らかにマルコの意図を感じる表記である。
 この呼び名の変化は、ヘロデへの皮肉、と捉えて良い。ヘロデの王としての素質を疑い、敢えて「王」という事によって、痛烈に皮肉っているのである。自分は処刑したくなかった、にもかかわらず、彼は自分の思いを翻意して、「王らしく」「尊大に振舞った」結果、処刑を執行したのである。
 正しい聖なる人、という事が分かっているのならば、ヘロデは自分の選択を間違ってはならなかった。だが彼は神を恐れず、人を恐れたのであった。それはキリストを十字架にかけた、我々の罪そのものであるとも言える。