2018.09.23 礼拝予定

    
主 日 礼 拝  午前 10:30
 
奏楽 
                      
        <神の招き>
 
招 詞  ガラテヤの信徒への手紙328
*讃 詠   545B
*罪の告白と赦し 交読詩編119916
*讃美歌  54
 
<神の言葉>
聖 書 箴言3章1節~12節  (旧約P993)
ルカによる福音書10章38節~42
                  (新約P.127                         
祈 り                松 谷 信 司                                                                                                                                                   
*讃美歌 285
   「主が望まれるもの」     
             吉平真理
 
                                                       
<神への応答>
*讃美歌 355
*十 戒
 公 告 
*献金感謝
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  542
*派遣と祝福
*後奏

2018.04.15 礼拝説教から

415日の礼拝説教から>
『ヘロデとヘロディア』
マルコによる福音書614-29
                 牧師 三輪地塩
 へロデが自分の誕生日を盛大に祝っていた時、娘サロメが入ってきた。たくさんの人を前にして気が大きくなったのか、或いは何でも願いを叶える良い父親を家臣の前で演じたかったのか。みんなの前で踊ったサロメに対し、「お駄賃」とばかりに、「何でも好きな物が願うがいい」と固く誓ったのであった。サロメの願ったものは、洗礼者ヨハネの処刑であった。
 
 これにヘロデは困惑する。その理由は「洗礼者ヨハネが民衆の人気を集めていたから」であるが、もう一つ理由がある。それは、ヘロデ家の家系に関することであった。
 ヘロデの祖父はエドム人、祖母はアラビア人、母はサマリア人であった。つまりヘロデ家は、ユダヤの血筋ではなく、異邦人家系である。当然、ユダヤ血筋を大切にするユダヤ人たちからは嫌われた。
 だが、洗礼者ヨハネは、律法はすべての者たちのためにある神の掟である、とし、ヘロデ家の者たちを、血筋によって差別的に扱わなかったのであった。それゆえ、ヘロデはヨハネに対し「正しい聖なる人である」(20節)と信頼を置いており、処刑せずに投獄したままにしておいたのである。だがサロメに誓ってしまった手前、ヨハネの処刑は執行されてしまうのであった。
 ここで聖書が、614節以下で「ヘロデ」という固有名詞を使っているのに、22節から「王」という一般名詞に変えていることは注目に値する。これは偶然、たまたま、ではない。明らかにマルコの意図を感じる表記である。
 この呼び名の変化は、ヘロデへの皮肉、と捉えて良い。ヘロデの王としての素質を疑い、敢えて「王」という事によって、痛烈に皮肉っているのである。自分は処刑したくなかった、にもかかわらず、彼は自分の思いを翻意して、「王らしく」「尊大に振舞った」結果、処刑を執行したのである。
 正しい聖なる人、という事が分かっているのならば、ヘロデは自分の選択を間違ってはならなかった。だが彼は神を恐れず、人を恐れたのであった。それはキリストを十字架にかけた、我々の罪そのものであるとも言える。

その他・集会案内

◇【道徳教育の“今”を考える】
929日(土)14001600 蒲田御園教会 
~公立小学校の「道徳教科書」をめぐるお話~
講師:鶴田敦子氏(子ども教科書全国ネット21代表委員。20年に亘り
中学・高校教師をした後、山形大学、群馬大学、聖心女子大学で勤務)
*特に小中学生をお持ちの親御さんにお勧めします。
 
◇長老・執事・委員研修会案内
 108日(月・休)10301530 柏木教会
 主題「全体教会に仕える長老・執事・委員のつとめ」
 主題講演 久保義宣(東京中央伝道所牧師)
*参加ご希望の方は本日までに森千恵までお知らせください。長老・執事以外の方もどうぞ。
 
◇【タビタの会献金のお願い】
タビタの会献金は引退した教職者とその夫人のお見舞などに
用いられる大事な献金ですので、ご協力宜しくお願いします。

2018.09.16~22 今週の集会

     
今 週 の 集 会
 
  • 祈祷題「聖書の学びと祈りの会のため
        「一日神学校のため」
    東京中会「信徒の集い」(女性部・青年部・高校生部合同)
                   16日~17日(日~月・休)
    「青年の集い」準備会          (上記終了後)
  • 聖書の学びと祈りの会       20日()10:00
      歴代誌上1章(担当 三輪地塩)   司会 安
    聖書の学びと祈りの会       20日()14:00
     詩編16編             担当 大

4月1日イースター説教から

41日イースター説教から>

       『イースターとは「キリストの復活祭」です』

              ヨハネによる福音書201-18

                             牧師 三輪地塩

 「(マグダラの)マリアは墓の外に立って泣いていた」。二人の弟子たちが帰ったあと、彼女は一人で墓に戻り、そこでさめざめと泣いていた。そして改めて「墓の中を確認」した。「泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた」のであった。天使たちは「婦人よ、なぜ泣いているのか」ということ以外を語らずマグダラが「泣いている」ことを殊更強調的に描く。

 何故人間は愛する人を失うと泣くのか、を問うたのは、精神科医の土居健郎であった。彼は『親しい者との死別』という本の中で、「親しい者を失うと、人はなぜ泣くのか、なぜ人は悲しいと感じるのか」の答えとして「愛があるからだ」と答えている。

 「どこに」というのが、この箇所のテーマである。「イースターは、キリストの復活祭」のことであるが、イースターは「死」という側面があるからこそ成り立つ「生命」を記念し、覚える教会暦である。

 我々の悲しみの頂点は、「愛する人との死別」であろう。死と共に「永遠の別れ」を感じさせられる時、「あの人は、どこへ、なぜ、行ってしまったのか」と問うのである。人は死について考え、死の事実に苦悶し、死と隣り合わせにある自らの命に向き合わざるを得なくなる。天国とは「一体どこなのか」。最愛の存在を失った者たちは、死の悲しみを、「どこへ行ったのか」「なぜ行くのか」という問いとして、神に問い、自分に問うのだ。

 この時、マグダラは、三度「イエスはどこへ」と問う。だが、この時彼女はあくまでも「墓の中」に命を探していた。墓は「死の象徴」であり、虚無と、空虚と、絶望と、喪失と、涙と、暗闇のシンボルである。命の終わりと、別れを象徴するもの、とも言える。そこには「命への諦め」がある。

しかしイエスは、彼女を「マリア」と呼ぶ。墓の中を探していた者を墓の外に連れ出し、「マリア」と、命の開始を呼びかける。死は終わりではなく、死は生命に変えられて行く。イースターは、キリストの命を喜ぶ時である。