2018.07.08の説教から 

 
78日の説教から>
『モーセ・エリヤ・キリストの栄光』
        マルコによる福音書92節~13
                      牧師 三輪地塩
     
 山上でキリストの変貌を見たペトロは「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と提案した。仮小屋を建てようとした理由は明確ではないが、これを「栄光の保存」という言葉に置き換えることができよう。記念碑を建て、永遠にこの栄光を保存したいという欲求である。
 筆者は記念碑を否定するつもりはないが、「記念碑の建立」という作業は、我々人間にとって、「瞬間の切り取りと保存」という意味を持っている。パリの凱旋門はナポレオンがオーストリア帝国とロシア帝国を打ち破ったアウステルリッツの戦いの戦勝記念として1836年に建てられた。だが完成する15年前に、彼は既にセントヘレナ島に幽閉されそこで非業の死を遂げていた。なんとも皮肉なことである。
 記念碑とは、まさにこのような一瞬の出来事、輝かしい事柄の保存、という意味はあるが、逆に「その意味しか無い」とも言えるだろう。つまり「永遠ではない」のである。その人の素晴らしく立派な行いとその生涯を、一瞬だけ切り取ったとしても、その一瞬は、その人自身のすべてを表わすものではないのだから。
 つまり「キリストの栄光」の瞬間を留めたとしても、キリストの生涯にとって何の意味もないのである。キリストは、美しく煌びやかで輝かしい生涯を送ったのではない。彼の存在の意味、意義、理由、性質においては、まことに輝かしい神の独り子であり、「肉をとり言葉となった神」である。だが、その栄光や輝かしさには「十字架」がない。キリストは美しく死んだのではなく、謂われのない罪に問われ、人間社会において「法的に正しく裁かれ」死んだのであった。その「正しさ」は、正に人間の罪における「正しさ」でしかなかった。人間の正義がまやかしであることを示したのがキリストの十字架である。そこには輝かしさはない。だがそれがキリストであり、我々は、そのキリストの痛みと苦しみによって生かされているのである