2018.07.29の説教から

729日の説教から>
一杯の水を飲ませてくれる者は
        マルコによる福音書938節~41
                         牧師 三輪地塩
 イエスの名前を使って悪霊を追い出している人を見たヨハネは「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と憤慨して言った。ヨハネは「主イエスに」ではなく「わたしたちに従わないので」と言っている。ヨハネは「イエスの名を使うなら、専売特許を持つ「我々12弟子に」許可を取る必要があるのだ」と言っているようでさえある。この自負心は「キリスト教会」にも起こりうる。これまでやって来た苦労、経緯、誇り、努力などが重なるほど、我々には自負心が生まれる。「我々はクリスマスに年に一度しか現れない、にわか信者とは違うのだ」とか、「教会のイベントやコンサートなどの時にしか来ない人たちとは違うのだ」という「誇り」や「自負心」が我々を取り囲みやすい。このようなヨハネ、ひいては我々に対して、イエスは「やめさせてはならない」「にわかファンでもいいじゃないか」と語るのである。
 我々は、何かの集団を作るとき、内側と外側という領域を作り、イエスの名だけを語る偽物と、正統な我々、という構図を明確にしたがる。だがイエスは「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と言う。この思いが極端になるとき、「自分たちに従わないので、私たちの基準に達しないので「排除」しましょう」という思考になる。まさにイエスの十字架はそのような思考構造の中で起きたことであった。
 今から2年半前に、フランス「シャルリー・エブド社」が、ムハンマドの強烈な風刺画を掲載したことで社員数名が射殺されるというテロ事件が起こった。単純に語る事は出来ないが、しかし一つだけ言えることは、この事件には深すぎる「自己(中心的)愛」があるということだ。「自己偏愛」と言ってもよい。自己や、自己の集団・信仰を愛するがあまり、その枠を超える言説を認めることができなくなる。それがこの事件に繋がったのではないかと思う。
 イエスの「逆らわない者は味方である」という言葉は、人間が、自己中心的偏愛から解き放たれ、自己と他者の垣根を越える世の構築を予期させるのである