2018.08.26 説教

        <826日説教から>
      『子供を祝福する』
       マルコによる福音書1013節~16
                           牧師 三輪地塩
 心理学者の河合隼雄の話。
「ある母親が相談に来て、「息子は幼稚園児なのに喋ることが極端に遅れている」と悩んでいた。勿論知能的な障害などはなかった。よくよく話を聞いてみると、母親は、子供を「自立」させるため、出来るだけ親と距離をおいて育てていたと言う。夜寝る時もできるだけ添寝しないようにし、一人で寝かせるようにした。子供は幼い頃から一人でベッドに行くようになって、それを見た親戚の人たちから感心されるほどだった、と言う。それを母親は「子の成長」と喜んでいた。だが、(河合隼雄の分析では)その子の自立は見せかけである。つまり、母親の強さに押されて、辛抱して一人で行動していただけで、本来的な自立をしていたわけでなかった。そのため、言葉の遅れが生じて来たのである。それを母親によく説明し、子供をもっと甘えさせなさいとアドバイスしたところ、その数ヶ月後には、言葉も急激に進歩し、平均的な子供の言語能力に追いついていったのである」。
 この河合隼雄の話は、「自立」と「依存」が正反対のことではないことを示している。自立とは「充分な依存の裏打ちがあってこそ生まれてくる」のである。自立は「依存しないこと」ではなく、「然るべき寄って立つところに依存すること」である。人間は、そもそも社会化された生き物であり、孤立して、単体で生きていくことは出来ない。人間は依存を排除して生きることは出来ず、必要な依存を受け入れ、自分がどれほど出来ないか、を良く認知した上で、感謝して依存すれば良い。その自覚こそが、本当の自立である。このような河合隼雄の分析は、あたかも、我々の信仰の歩みを表わしているかのようでもある。
主イエスは「子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と言われた。なぜ神の国は「子供たちのような者のため」のものだと主は言われるのか。それは、子供こそが、親という「然るべき寄って立つ依存先を知っているから」である。それと同じように、我々もまた「神のもとに寄って立つ「子供のような」存在」でありたいものである