2018.09.02 説教

             <92日の説教から>
             『お金持ちの男性』
          マルコによる福音書1017節~22
                             牧師 三輪地塩
一人の男がイエスのもとにやって来て言った。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。イエスは「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という、十戒の後半6つの戒めを挙げ、これを守るようにと答えた。
 しかしこの男は、「そのようなことは子供の時から守ってきました」と答えている。彼の態度は非常に信仰的であると言える。だが「子供の時から」という言葉に少々引っ掛かる。彼の信仰が「子供の延長線上」に見えるからだ。
 我々も同じである。子供の頃から教会に親しんだ人が、大人になっても日曜学校レベルの話しか理解出来ないのでは、少々残念に思えてしまうように。
 信仰は、我々が人生を歩むに従って、自ずとその段階を踏ませる。幼児の頃の神は、純粋無垢な祈りに、真正面から答えてくれるように思えた。だが大人になると、人生の紆余曲折を経て、必ずしも神が「自分の為だけの神ではない」ことに否応なしに気づかされる。
この男の信仰の稚拙さは、「貰う信仰」「与えられることだけを信じる幼児期の信仰」だったと言えよう。求め、手に入れるだけ。ベクトルが自分にしか向いていないのだ。
 イエスは彼に言った。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と。
 彼には欠けがあった。与えない信仰であることだった。神の前にも人の前にも、自分を明け渡すことのない人生を彼は歩んでいた。自分を「捨てること」が出来なかったのだ。「自分自身は保持したいが、永遠の命も欲しい」「しかし一切を捨てたくない」。それが彼だった。しかしイエスの要求は、「得るための欠乏」を求めるものである。「得るためには捨てるのだ」と言う。ヨハネ福音書12章にあるように「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。イエスは可憐、「自分を救うのでは無く、他者を生かすこと」を要求された。それは現代の我々への問い掛けでもある