2019.7.28週報掲載の説教

<12月30日の説教から>

『神と隣人とを愛する』 マルコによる福音書12章28節~34節

牧師 三輪地塩

三浦綾子の『ひつじが丘』という作品の話。主人公は牧師家庭に生まれた娘。牧師(父)に反抗を繰り返し、父に言われることの反対ばかり行なっていた。しかしその結果、大変な人(厄介な男性)と出会ってしまい、苦しい人生を歩むことになってしまう。心が折れ、ボロボロになる中で、父は娘に言う「愛するとは赦すことだよ」と。最初はその言葉を受け入れることが出来なかった娘も、次第に心がほぐれ「愛とは赦すこと」の深淵なる意味に触れるようになっていく。決してハッピーエンドではないが、「愛とは赦すこと」という言葉が作品全体に響き渡る、印象的なストーリーである。

キリスト者である我々は、「愛とは赦すこと」という言葉に共感し、これを真っ向から否定することは少ないと思う。だが、これを実践せよ、と言われた途端、この言葉が重くのしかかってくるだろう。

だが、ここで考えたいのは、本当に我々の心は「敵対する人を愛する」という方向に向いているのか、ということである。つまり、最初から赦すつもりになっていないのではないか。それなのに、やれ「赦せない」だの、やれ「私にはできない」だの、結局「出来ない」という前提の枠の中に、自らを閉じ込めてしまっているのである。

だが、よく考えてほしい。「敵を赦す」という言葉には、既に「敵」という否定語が使われている。つまり、心から敵を愛することなど出来ないのだ。「隣人を愛する」と「敵を愛する」という事柄が、同等の意味を持つのだとするならば、我々は、「愛する」ということを、一生懸命頑張って行わねば達成できないことなのだ。心のままに自然体のままで敵を赦すことが出来れば何も言うことはない。しかしそんな人はよほどの「鈍感力」「無痛症」でなければできない。人間はそんなに強くないのだ。人間はそんなに立派ではないのだ。むしろ、一生懸命頑張って人を愛し、一生懸命頑張って赦そうと努力する。そのことなくして、「私にはできない」と諦めてはならない。

イエスのゲツセマネの祈りを見て欲しい。「もし可能であればこの苦しみの杯を取り除いて下さい」と切実に祈った。あの祈りは、自分を殺そうとする者たちをどう赦せば良いのか。どう受け止め、その悪の感情をどう昇華していけば良いのか、という祈りだったのではないか。イエス・キリストは、死の瞬間まで「真の神にして、真の人」であり続けたのだ。