2019.7.7の礼拝予定

主 日 礼 拝  午前 10:30

< 聖  餐  式 >        奏楽   岩 本 道 子

<神の招き>

招 詞  マラキ書3章1節

*讃 詠  545B

*罪の告白と赦し 交読詩編143編7節~12節

*讃美歌  29

<神の言葉>

聖 書 イザヤ書40章6節~8節  (旧約P.1124)

ペトロの手紙一1章22節~25節

(新約P.429)

祈 り                                        *讃美歌  213

説  教 「変わることのない生きた言葉」  三 輪 地 塩

<神への応答>

*讃美歌  517

*日本キリスト教会信仰の告白

聖餐式  204

公 告

*献金感謝

*主の祈り (座席前そなえつけ)

*頌 栄  541

*派遣と祝福

*後 奏

聖餐補佐  増田 松谷 三浦 伊木

「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は

お座りのままでどうぞ。

礼拝当番(今週)安井、野田、國久、國見

(次週)森﨑、済陽、栗原、小出和

掃除当番(今週)河野武郎、安井英、大嶋

菊池淑、栗原、島口

(次週)福永真、松谷、伊木、須田

國見、河野武子、佐藤允

*礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください。

2019.7.7~13 今週の集会

2019.7.7 本      集 会

〇日曜学校                 9:00

〇朝カフェ(担当 松谷信司)        9:30

〇入門の会(担当 三浦勇二)          9:45

〇クワイア練習                  礼 拝 後

〇コイノニア                 礼 拝 後

〇入会試問会               12:30

〇定期小会                13:00

今 週 の 集 会

◎祈祷題「ミッションスクールのため」

「伝道協議会のため」(7月15日 柏木)」

〇聖書の学びと祈りの会         11日(木)10:00

歴代誌下4章(担当 三輪地塩)   司会 室 橋 明 子

〇聖書の学びと祈りの会             11日(木)14:00

ヘブライ人への手紙5章11節~   担当 岡 野 庸 子

〇大会常置委員会(柏木教会)   11日(木)14:00

牧師予定】
〇立教大学講義 9日(火)、聖学院大学講義 10日(水)

2019.7.7のお知らせ

◇午前・午後の祈祷会は次週7月18日~9月12日まで

休会となります。

◇8月11日(日)午後、かき氷大会後13:30~

平和記念コンサートをいたします。チラシ・ハガキが

出来ておりますので、ご家族・友人・知人をお誘い下さい。

【中会伝道協議会】

7月15日(月・休) 10:30~15:30 柏木教会で開催

長老・執事以外の方もどうぞご参加ください。

【靖国神社スタディツアー】

7月16日(火)

【夏季献金のお願い】

夏季献金は、維持献金の不足を補うためにも大事な献金で

すので、どうぞ宜しくお願いいたします。

2018.12.2の説教から

<12月2日の説教から>

皇帝に納める税金

マルコによる福音書12章13節~17節

牧師 三輪地塩

イエスは「皇帝のものは皇帝に」と答えた。それはユダヤ人たち、特にファリサイ派の人たちにとって衝撃的な答えであった。「刻んだ像」の存在を認め、その価値を認めているかのような答えだったからである。しかしイエスの言葉には続きがある。「神のものは神に返しなさい」と。

そもそも皇帝とはどういう存在であろうか。聖書は権力者に対して中立的である。よく知られている、ローマ書13章の中で使徒パウロは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。」と語り、「権力者に従え」と述べられている。

デンマークの有名な哲学者キルケゴールは「皇帝のものは皇帝に」という言葉は、「皇帝に対して、イエスが徹底的に無関心であること示している」と言う。キルケゴールが言うのは、「キリスト者は、政治に無関心でよい」と言うことではなく、「皇帝と神を並列関係に置くこと自体がナンセンスだ」という意味である。「皇帝のものは皇帝に」、という言葉は、後半の「神のものは神に返しなさい」という言葉に全てが集約されている。「皇帝」VS「神」という構図は成り立たず、神に拮抗する巨大勢力としてのローマ皇帝など、君臨すべくもない。イエスにおいて「神のものは神に」という言葉には、全てが「神の下にある」という大前提がある。

我々は、「刻んだ像を作ってはならない」という事を知っているが、神は「ご自分の姿を我々人間の姿に刻んでいる」とも聖書は語っている。我々は「神の像」「神の似姿」。我々はすでに神の似姿であると聖書は主張する。創世記1章で「神はご自分に似せて人間を造られた」とある通り、私たちは神の尊厳が刻み込まれていると聖書は伝えている。この罪深い我々が、神の似姿として生きる事を許可されている。「神の似姿として、人間の尊厳として歩みなさい」と命じられるのである。

神の尊厳と、神に託された命を生きる事、それは決して「我々の栄光」のためではなく、神の栄光のために生きる。それが我々の生涯であり、人生である。