2020.1.12 の礼拝案内

週 報 752020.1.12
民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。ルカによる福音書3章15節)

主 日 礼 拝  午前 10:30
奏楽  三 輪 志 都

 <神の招き>
招 詞 詩編119編105節

*讃 詠  546

*罪の告白と赦し 交読詩編8編4節~10節

*讃美歌  77

<神の言葉>
聖 書 イザヤ書40章3節~5節 (旧約P.1123)

ルカによる福音書3章1節~20節 (新約P.105)

祈 り        伊木 三穂子

*讃美歌  516

説  教   「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」     三 輪 地 塩

<神への応答>
*讃美歌  532

*ニカイア信条

公 告

*献金感謝

*主の祈り (座席前そなえつけ)

*頌 栄  542

*派遣と祝福

*後 奏

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礼拝当番 (今週) 松谷、岩本、浜田、浜野

(次週) 森﨑、済陽、半田理、半田龍

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掃除当番 (今週) 薄田、青木、志賀洋、越智

加藤純、平野、白川

(次週) 河野武郎、安井英、大嶋

菊池、島口、齋藤

☆礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください

2020.1.12 週報掲載のお知らせ

次 週 礼 拝

説教 「神の御心に適う方」        三 輪 地 塩

詩編2編7節~12節

ルカによる福音書3章21節~22節

讃美歌  545a、79、519、529、543       岩 本 道 子

日曜学校説教「主は真の神」       松 谷 信 司

出エジプト記16章1〜16節

◇本日は総会資料の締切日です。増田裕子までメール添付

にてお送りください。

【 公   告 】

2020年度 浦和教会定期総会を開催します。
*日 時:126日(日)礼拝後 1230
*場 所:浦和教会会堂1階
*議 題:2019年度報告、長老・執事・日曜学校長選挙、2020年度計画、予算案、その他
◎万障お繰り合わせの上ご出席ください。

2020.1.12~2020.1.18 今週の集会

      集 会

〇日曜学校                 9:00

〇「教会員の生活」による学びの会      9:30

〇朝カフェ(担当 松谷信司)        9:30

〇入門の会(担当 三浦勇二)        9:45

〇クワイア練習                礼 拝 後

〇コイノニア                礼 拝 後

今 週 の 集 会

◎祈祷題「浦和教会各団体の活動のため」

〇日曜学校教師研修会(横浜海岸)13日(月・休)10:30~15:45

〇総会資料印刷          15日(水)10:00

〇聖書の学びと祈りの会      16日(木)10:00

歴代誌下18章(担当 三輪地塩) 司会 伊木 美穂子

*総会資料製本・配布           同 上 後

〇聖書の学びと祈りの会      16日(木)14:00

ヘブライ人への手紙8章1節~6節 担当  岡 野 庸 子

 
【牧師予定】

〇聖学院大学講義・礼拝説教   15日(水)

〇中会財務委員会(浦和)    16日(木)

〇中会常置委員会(柏木)    17日(金)

2020.1.12 週報掲載の説教

<2019年5月5日の説教から>

マルコによる福音書15章16節-20節

『唾を吐きかけて拝む』
三輪 地塩

宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』で、千尋(ちひろ)という主人公が、湯婆婆(ゆばーば)と呼ばれる魔女の下で働く時、名前から下の部分を取られ、「千」(せん)と呼ばれ、湯婆婆に支配される場面がある。名前を奪われることは、その人自身にある尊厳を失うことになる。よく知られたことだが、アウシュビッツの看守も、ユダヤ人たちを氏名ではなく番号で呼ぶことによって、「そのひと性」を失わせるという手法を取り、ナンバリングされた「物」として扱った。

この聖書の場面でも同様に、「イエス」とは呼ばず「王」と呼ぶ。これは侮辱としての呼び名である。意図的に実名を伏せたのかどうかは分からないが、少なくとも、政治・軍事権力者たちが「全員揃って」、イエスを孤立させ、尊厳を侵害し、孤立させたことは明らかであろう。このような侮辱行為の中に「十字架」がある。

この侮辱をしたローマ兵について、考古学的なことであるが、この時のローマ兵は、本物のローマ人ではなく、サラリーを得て従事している外国人傭兵であった。だが、イタリア半島からエルサレムに多くのローマ人を連れてくるのはコスト的にも無駄なため、現地募集の方法を採っていたと考えられる。この時、ローマ軍を構成していたのは、イスラエルとは仲が悪かったシリア人であった。イスラエルはシリアと何度も戦争を繰り返し(現在に至るまで!)、喧嘩が絶えない関係であった。このような隣国との不和を巧みに利用した傭兵制度は、ユダヤ地方を抑え付けるには十分だった。傭兵たちの暴力はそれゆえに憎悪に満ちたものになっていたかもしれない。マルコによる福音書の読者は、ここで、あらゆる軽蔑と恥辱を受けながらも神に忠実を尽くした「預言者イザヤ」の「苦難の僕」(53章)を思い起こす。

キリスト教の「罪」概念を伝えると、たびたび「キリストを十字架に架けたのは私じゃないのに、なぜ我々は罪人と呼ばれるのか」と質問される。確かに「罪」に飛躍があるように思われるかもしれない。しかし、キリスト教信仰における「罪」とは、「実行犯」に対する罪だけではなく、その罪の計画者となり得る全ての者の罪、すなわち我々が本質的に持っている「内在的罪」の全てを含んでいるのである。