2020.1.12 週報掲載の説教

<2019年5月5日の説教から>

マルコによる福音書15章16節-20節

『唾を吐きかけて拝む』
三輪 地塩

宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』で、千尋(ちひろ)という主人公が、湯婆婆(ゆばーば)と呼ばれる魔女の下で働く時、名前から下の部分を取られ、「千」(せん)と呼ばれ、湯婆婆に支配される場面がある。名前を奪われることは、その人自身にある尊厳を失うことになる。よく知られたことだが、アウシュビッツの看守も、ユダヤ人たちを氏名ではなく番号で呼ぶことによって、「そのひと性」を失わせるという手法を取り、ナンバリングされた「物」として扱った。

この聖書の場面でも同様に、「イエス」とは呼ばず「王」と呼ぶ。これは侮辱としての呼び名である。意図的に実名を伏せたのかどうかは分からないが、少なくとも、政治・軍事権力者たちが「全員揃って」、イエスを孤立させ、尊厳を侵害し、孤立させたことは明らかであろう。このような侮辱行為の中に「十字架」がある。

この侮辱をしたローマ兵について、考古学的なことであるが、この時のローマ兵は、本物のローマ人ではなく、サラリーを得て従事している外国人傭兵であった。だが、イタリア半島からエルサレムに多くのローマ人を連れてくるのはコスト的にも無駄なため、現地募集の方法を採っていたと考えられる。この時、ローマ軍を構成していたのは、イスラエルとは仲が悪かったシリア人であった。イスラエルはシリアと何度も戦争を繰り返し(現在に至るまで!)、喧嘩が絶えない関係であった。このような隣国との不和を巧みに利用した傭兵制度は、ユダヤ地方を抑え付けるには十分だった。傭兵たちの暴力はそれゆえに憎悪に満ちたものになっていたかもしれない。マルコによる福音書の読者は、ここで、あらゆる軽蔑と恥辱を受けながらも神に忠実を尽くした「預言者イザヤ」の「苦難の僕」(53章)を思い起こす。

キリスト教の「罪」概念を伝えると、たびたび「キリストを十字架に架けたのは私じゃないのに、なぜ我々は罪人と呼ばれるのか」と質問される。確かに「罪」に飛躍があるように思われるかもしれない。しかし、キリスト教信仰における「罪」とは、「実行犯」に対する罪だけではなく、その罪の計画者となり得る全ての者の罪、すなわち我々が本質的に持っている「内在的罪」の全てを含んでいるのである。