2020.2.2 週報掲載の説教

<2019年5月19日説教から>

『本当にこの人は神の子だった』
マルコによる福音書15章33節~41節

牧師 三輪地塩

 
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と語る場面が、詩編22編の言葉の引用である、という解釈がある。この22編の最後が神讃美で終わっているため、このキリストの言葉自体が神讃美であるという解釈があるようだ。しかしキリストの十字架が、そのような「神への従順」「堅い信仰」などのような美しさが強調された出来事とは到底思えない。むしろ、極限まで、痛みと、孤独の中を歩み、恐怖と、あざけり、傍観、妬み、憎しみの中で、本当の苦しみの死、世から切り捨てられた思いを持って迎えられた十字架だった、と理解すべきではないかと思う。それを知る時、我々は「罪の贖い主」としてのキリストの存在を正面から受け取ることができるのではなかろうか。

この十字架の出来事の下ではユダヤ人たちはイエスを見上げて口々にこう言った。「そら、エリヤを呼んでいる」「待て、エリヤが彼をおろしに来るかどうか、見ていよう」と。当時のユダヤ人の言い伝えでは「旧約預言者のエリヤは、地上にいる信仰者が苦しみに遭うと、そこに現われて、その信仰者を助ける」ということが言われていた。「そこに居合わせた人々」は、この伝承を知っていたのでユダヤ人と思われる。このユダヤ人たちは、興味本位で、半ば楽しみながら眺めている。彼らはイエスの苦しみを楽しんでいるのである。この罪深さこそが、我々の罪の本質を如実に表わしていると言える。決して間違ってはならないことは、「ユダヤ人が残忍」なのではなく「人間が残忍」なのだということ。

インターネット・SNSが爆発的に広がり、世界の災害や戦争の情報を瞬時に受け取ることが出来る時代である。だが我々は、その情報を対岸の火事として、影響なく生きていける自分たちの安心に囲まれて、心のどこかで楽しんで見てはいないか。自分の事じゃないから、真剣にというよい、興味本位で楽しんでしまってはいないか。もしそのような思いが心のどこかにでもあるならば、我々は、十字架の下で「エリヤが来るのを待っている」罪人の一人と言える。キリストの十字架は、この我々の罪のために起こったのだ。

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