2020.3.15 の礼拝案内

週 報 75巻11号 2020.3.15

イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」(ルカによる福音書5章14節)

主 日 礼 拝  午前 10:30

〈レントⅢ〉        奏楽 板 垣 玲 子

<神の招き>
招 詞  ヨシュア記1章5節

*讃 詠    545B

*罪の告白と赦し 交読詩編17編6節~12節

*讃美歌   86

<神の言葉>
聖 書  レビ記14章1節~9節  (旧約P.182)

ルカによる福音書5章12節~16節(新約P.110)

伊 木 美 穂 子

祈 り

*讃美歌   249

説  教   「主よ、御心ならば」     三 輪 地 塩

<神への応答>                     
*讃美歌   257

*日本キリスト教会 信仰の告白

公 告

*献金感謝

*主の祈り (座席前そなえつけ)

*頌 栄   541

*派遣と祝福

*後 奏

「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難の方は

お座りのままでどうぞ。

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礼拝当番 (今週) 安井国、済陽、小川澄、越智

(次週) 伊木、野田、加藤ヨ、菊池

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掃除当番 (今週) 福永、松谷、伊木、須田

国見、佐藤允

(次週) 済陽、森﨑千、國久、新畑

鈴木、小出勝、武政み

☆礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください。

2020.3.15 週報掲載のお知らせ

次 週 礼 拝

<レントⅣ>

説教 「あなたの罪は赦された」     三 輪 地 塩

詩編32章1節~5節

ルカによる福音書5章17節~26節

 
讃美歌 546、87B、138、142、542   三 輪 志 都

 
日曜学校説教「あなたの隣人は誰ですか」

ルカによる福音書10章25節~37節       岡 野 庸 子

 
同時にスクリーン礼拝を行なっています。

未経験の方にはぜひ試しください。新型コロナウイルス

感染対応のためにも、間隔をとってお座りください。

 
◇「おはなし会」中止のお知らせ

本日午後13:00~南浦和教会で行われる予定の「おはなし会」は中止となりました。

【第69回定期中会】

日時:3月19日(木)(一日だけの開催)

会場:柏木教会

浦和教会の正議員:三輪地塩牧師、安井国雄長老

2020.3.15~2020.3.21 今週の集会

      集 会

〇日曜学校                 9:00

〇「教会員の生活」による学びの会(休会)  9:30

〇朝カフェ(休会)             9:30

〇入門の会(休会)             9:45

〇クワイア練習               中  止

〇コイノニア                中  止

 
今 週 の 集 会

◎祈祷題「第69回定期中会のため」3月19日

〇聖書の学びと祈りの会は、新型コロナウィルス対応のため

午前・午後とも4月まで休会とします。

〇第69回定期中会(柏木教会)  19日10:00~

 
【牧師予定】

第69回定期中会準備 18日(水)

第69回定期中会   19日(木)

2020.3.15 週報掲載の説教

<2019年6月9日説教から>

『マグダラのマリアに現れるイエス』            
      マルコによる福音書169節~13
牧師 三輪地塩

「彼らは二人の言うことを信じなかった」と聖書は証言する。

信じなかった理由は明白だ。「信じて聞かなかったから」である。「信じることが出来ない」という状態は、「何かに縛られた状態」と言い換えることもできる。「復活を信じない」何らかの枠組み、価値観、復活の不可能性に縛られた死生観。それらは啓蒙主義の現代社会にも似ている。

マグダラのマリアはイエスの弟子の一人であったと言われる。彼女は、ガリラヤ湖の北西に位置するミグダル出身であるらしい。彼女について聖書は「以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である」と紹介している。「七つの悪霊」の意味は明確ではないが、少なくとも「ふしだらな女性」を意味しない。むしろ、何らかの病気に罹っていたことを示すのか、または、人間関係や社会構造による「縛り」に取り憑かれるような状態だったのかもしれない。人はしばしば、家族、友人から大きな恩恵を受け、助けを受けて生きている。だが人間関係は、人間を最も強く縛り付ける要素でもある。世間体とか差別的な社会の偏見なども人を縛るかもしれないし、財産、地位、名誉もその要素である。又は、世間が勝手に作り出した「女性像」「女性らしさ」のような価値観が、マグダラのマリアを、がんじがらめに縛り付けていたのかもしれない。「女性らしく生きる」ことが強いられ、イエスの弟子として生きることは「女らしくない」と揶揄されたのかもしれない。様々な推測ができる「七つの悪霊」であるが、その共通項は「その人自身の思いとは異なる価値や状態に縛る」ということになるだろう。

復活のイエスの情報を聞いた弟子たちが、口を揃えて「信じなかった」と証言しているが、この時の聞き入れなかった者たちこそが、復活の命とは異なる価値観に縛られていたからにほかならない。それは、「死人は復活しない」という絶望の価値観である。

しかしキリストは我々を復活の価値へと解き放つ。絶望は命へと変えられる。死は生へと変えられるという希望の価値観である。我々は、根拠のない世間の縛りではなく、キリストの命に縛られたい。使徒パウロが「キリストのドゥーロス(奴隷)」と語ったように、キリストの復活の命に縛られたい。