2021.11.7 主日礼拝の案内

2021.11.7 主日礼拝の案内
週  報 76 巻 45 号 2021.11.7
そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた

(ルカによる福音書20章7節)

主 日 礼 拝  午前 10:30
奏楽 岩 本 道 子

<神の招き>
招 詞 ヨエル書 3章1節

*讃 詠  545A

罪の告白と赦し 交読詩編119編153節~160節

*讃美歌 61 〔1-2〕

<神の言葉>
聖 書 イザヤ書22章12節~14節 (旧約P. 1093)

ルカによる福音書20章1節~8節(新約P.148)

祈 り

*讃美歌 Ⅱ195〔1-2〕                                                             説  教 「キリストの権威」 三 輪 地 塩

<神への応答>
*讃美歌 502〔1-2〕

公 告

*主の祈り

*頌 栄 541

*後 奏

礼拝当番(今週)三浦 勇二

(次週)岩本道子

ライブ配信当番
(今週)小出 勝

(次週)新畑  信

2021.11.7~11.13 の集会案内

2021.11.7~11.13 の集会案内
      集 会
〇「教会員の生活」による学びの会   休 会

〇朝カフェ              休 会

〇入門の会              休 会

〇クワイア練習            中 止

〇コイノニア             中 止

〇礼拝堂・1階の消毒(有志)     礼 拝 後

〇定期小会               礼 拝 後

今 週 の 集 会
◎祈祷題「全体協議会のため」

「第71回大会のため」(11月23日~24日)

〇聖書の学びと祈りの会 11月11日(木)10:00

ネヘミヤ記5章(担当 三輪地塩) 司会 吉田 さとみ

※ラインで行います。

次 週 礼 拝
説教 「ぶどう園と農夫のたとえ」 三 輪 地 塩

詩編80編9節~12節

ルカによる福音書20章9節~19節

讃美歌

545B、465(1-2)、172(1-2)、171(1-2)、542

三 輪 志 都

日曜学校礼拝説教 「苦難の中から祈るヨナ」

ヨナ書2章1節~11節     済 陽 高 志

2021.11.7 週報 教会からのお知らせ

2021.11.7 週報 教会からのお知らせ
◇本日 9:00~9:30地域の清掃に有志が参加
全員協議会公告
日時:11月14日(日)礼拝後12:00~13:30

内容:「浦和教会の今後について」

参加:浦和教会の会員

場所:1階会堂

*昼食をとる方は開始までにお済ませください。

会堂改修工事についてお知らせ
11月1日~12月11日の改修工事は以下の場所を行います。

①2階礼拝堂

②3階牧師室,礼拝席,和室改修

③共有部分(階段・階段前、階段窓十字架の電飾、防災灯)

暫く1階会堂で礼拝をいたしますので、ご了承ください。

2021.11.7 の週報掲載の説教

2021.11.7 の週報掲載の説教
<2020年6月7日の説教から>

ルカによる福音書6章37節~42節

『まず自分の目から丸太を取り除け』
牧師 三輪地塩

この箇所は、実にアイロニックである。37節の「人を裁くな」「人を罪人だと決めるな」の言葉は、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という主の祈りの一節が共鳴する。我々は人を裁きがちである。人の罪や間違いはよく見えるし指摘しやすい。だが自分の罪を直視させられるのは嫌いだし、人から間違いを指摘されるとムキになって怒り出す。実にしょうもない存在だ。こんな人間の性質・弱さ・悪さ・汚さについて、今日の箇所は包み隠さず語っている。

38節の「自分の量る秤で量り返される」「押し入れ、揺すり入れ、溢れるほどに量りを良くして」という言葉は難しい。だが、当時の文化的背景から読むと多少分かり易くなる。つまり「収穫物を測量するイメージ」で語られているのである。「秤」と言われているのは「麦を入れる秤」「升」のこと。「量りを良くする」は、升から溢れるほど山盛りに麦を入れ、山盛りの升の上部を板か何かで、すぅ~っと払い落とした、ちょうど一杯分の升の量、それを「良い量り」と呼ぶ。つまり満タンだ。それに対し「悪い量り」とは、升が満タンになっていない状態。升一杯分より少ない状態のことを「悪い量り」と呼んでいる。

イエスは今日の箇所で「押し入れ、揺すり入れ、溢れるほどに量りを良くして、ふところに入れてもらえる」と語られる。それは、良い量りの上に、更に「押し込んでくれる」ということである。ただでさえ、たくさん入っているのに、それ以上にギュウギュウに押し込んで入れてくれる。少しでも隙間があれば、升を揺すって麦をねじ込んでくれるというのだ。そして遂には升が溢れてしまうほどたくさんの麦を升に入れてくれる。その様子を表わしている。つまり、それだけたくさんの恵みを我々に与えて下さるという比喩である。

我々は、浅はかで、人を愛せず、赦せない。使徒パウロの言葉を借りると「土の器」である。だが、この小さな器の小さな信仰者の「小さな升」の中に、神は恵みと祝福を「ギュウギュウに」たくさん入れてくれる方なのだ。何とかして、揺すり、空間を作り、押し込み、溢れてしまうほどに祝福をねじ込んで下さる方。それが神なのだ。我々にとって神の恵みとはそういうものなのだ、とイエスは比喩をもって語っている。