聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記3章1節-24節(Ⅱ) 2010年5月20日

        
  蛇の誘惑を受けたエバは、決して食べてはならない「善悪の知識の木」から取って食べ、またアダムも同じくそれを口にしました。それによって彼らは自らが裸であることを悟り、イチジクの葉をつづり合わせて腰布とした、とあります。

  今日の箇所3章の後半は、神様が庭師であるアダムとエバを呼び、彼らに説明を求めていることが書かれています。前回も申し上げましたが、神様はまずアダムに説明を求め、彼はエバの責任(ひいてはエバを作った神様の責任にしている!)にし、エバは蛇の責任にしています。そして面白いことに、神様は蛇に対して説明を求めていないわけです。私たちはこの箇所を読むとき、なぜ蛇がアダムとエバを誘惑したのか、という疑問が沸き起こると思います。誘惑するということはこの蛇にとって何らかのメリットがなければそんな唆しはしないし、見つかった場合自分にもその罪が振り掛かるわけですから、理由無く危ない橋を渡らせることはしないと思います。考えれば考えるほど疑問が出てきますが、しかしこの話の中で重要なのは、そういう細かいことを追及することではなくて、誘惑した者が悪いのではなく、神様との約束(契約)を知りながらも破ってしまう人間という存在に関して知るということ。それがこの箇所の中心点なのです。私たちは誘惑する人と、誘惑される人、どちらにも非があると考えます。しかし今日の箇所が言っているのは、誘惑される側、人間の側の問題の追及です。これは1章26節の我々の存在の本質とも関係しています。つまり、私たちが神の似姿として創造された、ということです。神の似姿、すなわち神の尊厳をまとったと看做されている人間が、神の約束を遵守できないものとなってしまったことが問題なのです。

  神の似姿とは何か、ということが、1章を学んだ時に質問にあがりましたが、F.トリブルという旧約学者は「神の似姿とは、ちょうど月をさしている人差し指のようなものだ」と言います。「指そのものは月ではないけれども、その指が示す方向を見ていくと月を見ることが出来る。それと同じように男と女は神の形そのものではないけれども、男と女の関係を見ていくと神の像が何であるのかが分かる。そして神の像そのものは神ではないけれども、神の像とは何かを見ていくと神が分かる」。このように言います。 つまりここで問題になっているのは、男と女の関係の中で、責任の押し付け合いをしているこの関係性の中に神の似姿を示す指は存在しない、ということが暗示されているのではないかと思います。そのため、蛇の誘惑にではなく、誘惑に遭いそれに負けた神の似姿としての人間の責任を問うておられるのではないでしょうか。


 ここでもう一つ注目したいことは、神様が最初に約束されたことがここで起こっていないということです。つまり、2章17節「ただし善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」このような約束がされていました。しかしここでアダムたちは生きているわけです。必ず死んでしまう、といいながらも、彼らはこのあとも暫く生き続けます。これは何を意味しているのか。ということが疑問になると思います。神様は嘘を言われたのだろうか。それとも神様の勘違いだったのだろうか。そんな議論もなされます。

  しかしこれらの矛盾は、これまでに様々な聖書学者たちによって考えられてまいりました。そして大きく分けて5つの説に区分できる。
 ①死なない存在だった人間が死すべき存在となった。(E.Speiser U.Cassuto) 
 ②古代人はこのような矛盾に気づかなかった。(H.Gunkel C.Westermann) 
 ③神の寛容。(関根正雄)
 ④神との霊的な関係が絶たれる(並木浩一)。
 ⑤しかし関根清三は第5の説を提唱する。「~2:17において神が嘘を吐いた、との解釈であ       る。~勿論この問いは我々の神義論的拒否感を引き起こすが、嘘には少なくとも二つの位相      がある。即ち、己の利益のために吐く嘘と他人のことを想って吐く嘘である。」(日本聖書      学研究所 「聖書の使信と伝達」 聖書学論集23 山本書店)この見解は大変興味深い。な      るほど、熱いお茶の入った湯呑を触ろうとしている乳幼児に対し、母親は「火傷するから触      っちゃだめよ。」と、少々大袈裟に、実際は火傷をするような熱さでなくとも言うではない      か。それこそ「己の利益のために吐く嘘」ではなく、まさに「他人のことを想って吐く嘘」      であるように思える。


以上のようにいくつもの説があるわけですが、重要なことは、ここでは実際の生命的な断絶としての死がもたらされた、というよりも、『神様との関係との断絶』が語られているのではないか、ということであります。私たちは3章5節の「どれを食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」の言葉が、一つのキーワードになっていることに注目したいのです。つまりここに示されているのは、人間が人間であることをやめて神のようになる、という人間が心の奥底で持つ高ぶり(おごり)の心であります。私たち人間の中には、人間であることよりも、神のようになりたい、という超人的な存在となる事を求める心があるということです。

 川端純四郎という先生が次のようなことを言いました。
 宗教というものは、大きく分けて3つのパターンによって成り立っている。仏教型、新興宗教型、キリスト教型の3つである。仏教型は「無の宗教」。つまり諦めの中と、人間が人間という存在に固執しない中に生きることによって解脱し、この世的な感覚から抜け出すことが出来るものである。そして2つ目の新興宗教型は、人間が人間の限界に挑戦し、人間であることから神の領域へと向かおうとする、超人になろうとする宗教である。これは特にオウム真理教が問題を起こした時に報道されていた通り、水の中で何分間息を止めていられるか、修行によって座禅のまま宙に浮くことが出来るのか、などのようなものである。しかしキリスト教型は和解の宗教と川端氏は言う。神との関係の修復、関係性の再構築。これが神との和解である。

 前前回から言っていることですが、彼らは裸であった「ので」恥ずかしがりはしなかった、という読み方が採用されるならば、この二人はお互いに向き合って、素直な関係の中に生き、そして支えあうために神様は男と女を創造された、と言う事ができます。しかし善悪の知識の木の実を食べ、彼らはお互いに隠しあう存在となりました。そしてお互いのみならず、神様からも自らの身を隠す
者となりました。10節「彼は答えた。あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。私は裸ですから」。アダムはこのような自己意識を持つのです。つまりここに「必ず死んでしまう」という主の約束された言葉の真実の意味があると思うのです。蛇が問題にしていたのは、生物学的な生命活動の停止としての死でありました。しかし神様が問題にしていたのは、神と人との関係の死であったということです。それは神と人間との関係の崩壊であり、人間が神から授かった人間性を喪失した、ということなのです。ここに人間の原罪があり、この罪の中に人間は生きる存在となってしまった、というのです。
 この原罪を持ってしまった人間に対して神様は14節で、「このようなことをしたお前は、~呪われるものとなった」と言い、男と女に別々の苦しみを課せられます。なぜ女性は苦しんで子供を産むのか。なぜ男性は地を耕して生涯ひたいに汗して働き、遂には死んで塵に帰るのか、の理由がここに示されています。それが15節から19節に書かれている内容です。
 この中で一つだけ言うべきことは、16節の「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む」。という翻訳は実は間違っているのではないか、と言われだしたということです。以前この箇所の言葉は完全な人間への神の呪いとして考えられてきました。しかし現在の研究によりますと、ここには神の呪いと同時に、神の祝福が語られている、という読み方です。
 ここでは「孕みの苦しみ」とか「苦しんで子を産む」のように、孕みと苦しみ、出産と苦しみを続けて訳されています。これは直訳ですと、「あなたの苦しみと妊娠を大いに増す。あなたは苦しみの中で息子たちを産む」となる、というのです。つまりここでいう「苦しみ」は出産の苦しみではなく、生活上の諸々の労苦としての苦しみであると。そういう多くの労苦があっても、その中で神の祝福としての妊娠、子供たちの出産が約束されているということであるから、ここに祝福があるのだ、という解釈であります。創世記が書かれた当時のユダヤ人にとって父権制社会が当たり前ですし、妊娠は神の祝福、子ができないのは神の呪い、という直接的な価値感覚の中で生きていましたから、妊娠は言葉上それだけで祝福なわけです。ですから出産の苦しみが神の戒めを破ったことに対する罰である、という理解は修正されねばならない、とある学者たちは言うわけです。
 そして最後の20節~24節に、この女性が「エバ」と名付けられたと記されています。理由は彼女が全て命あるものの母となったからであると言います。(ハッバー(ヘブル)「命」)。彼女は命との強い結びつきが意識されてエバと名付けられました。なぜ彼女が命と強く結びついているのかは明らかではありませんが、おそらく2章23節の言葉、アダムとの関係つまり人間同士の関係と、神との関係を、罪と生命の中で問おうとする、という意味で、彼女は人間の本質としての「命」をその名前に受けた、のではないでしょうか。
 そのアダムとエバですが、彼らは結果的に、罪を犯しました。そしてエデンの園からの追放。つまり失楽園の出来事を迎えるわけです。23節「主なる神は彼をエデンの園から追い出し~」とあるように、神様は2人を追放したということです。約束を破ったペナルティーは失楽園でありました。しかし私たちは一つの言葉に注目したいのです。それは、23節の追放の言葉の前に、21節「主なる神は、アダムと女に、皮のころもを作って着せられた」。このようにあります。これは明らかに審きを越えた神様の保護であります。神様は彼らの罪をほったらかしに致しません。厳しく追及なさり、罰を与えられます。しかし裁くと同時に保護するのです。これが創世記の著者の神理解であります。神は裁いて追放して、あとは知りません、というのではなく、人間に対して、神様はどこまでも人格関係の中に立とうとなさっている、ということです。人間は神の前から身を隠し、避けてやり過ごそうとします。しかし神は人間に向きあうのです。逃亡しようとした人間に対して、向き合おうとしない我々に対して、その関係に否定せず、むしろ保護されるというのです。ここに創世記の書かれた状況による、神理解が示されています。神は捨て置かれない。たとえバビロン捕囚に遭って人質となろうとも、この捕らわれた我々は神に捨てられたわけではなく、今尚、神の保護を受ける存在足りえるのだ。犯した罪は非常に大きい。神との約束からの離反。破戒を行なった人間がいる。しかし神はそのような私たちですらも守られ、愛される方であるわけです。「神はその一人子を世の中にお与えになったほどに、世を愛された」と言われる神がここにおられる。このことを覚えたいと思います。