2022.1.1.2 の週報掲載の説教

2022.1.1.2 の週報掲載の説教
<2020年7月12日の説教から>

ルカによる福音書7章18節~23節

『わたしにつまづかない人は幸いである』
                  牧師 三輪地塩

ユダヤ民衆の英雄である洗礼者ヨハネは、冤罪によって投獄されていた。時の権力者ヘロデの罪を糾弾したからである。現代日本においては、権力者の顔色を伺って忖度し、権力の意向に沿う行動を取ることが今やお家芸となって久しいが、“空気の読めない男”ヨハネは、ヘロデと真っ向から対立し、牢獄に入れられたのだった。ヨハネの誠実で正義に溢れる行動を、手放しで賞賛する人もいるだろうが、「賢さ」の行使に疑問を呈する人もいるだろう。神の名の下に賢い行動だったかどうかは分からない。だが少なくとも、神の名の下に「間違いのない言葉」だったのは事実であろう。

本来なら既に処刑されるはずの状況で、ヨハネは生き延びていたのは民衆たちからの絶大な支持による。だが、生き延びることが必ずしも幸福であるとは限らない。ヨハネは生き続ける苦しみを受けていたのだった。完全に自由が奪われるのみならず、ヘロデ家が存続するために飼い殺しにされる日々を牢獄で過ごしてたのだ。正しい言葉を発したがゆえに苦しむというこの状況から、不誠実で横暴な人間社会の縮図を見ることも出来よう。

絶望のヨハネは二人の使いによってイエスに質問をした。「神の国は一向にやってこない。正義は必ずしも勝つわけではなく、悪人は蔓延り裁かれない。この世とは一体何なのか」と。ヨハネはイエスに尋ねた。「あなたは本当に救い主ですか。それとも他にメシアが来るのですか?」と。

これに対してイエスは自身のメシア性を明言しない。それは人は苦しみに立つ時、即効性のある救いを求めるからだ。一刻も早く苦しみから抜け出したいと願う思いが、救いを矮小化させる。それは往々にして、身体的で物理的な救いの求めとなる。つまり、苦しみが無くなった途端に、救いも忘れてしまう。喉元過ぎれば何とやら、である。

イエスはここで救いの本質について問うている。「何が救いか」、ではなく「それを救いであると信じることが出来るか」と。真の神の救いとは、あなたの欲することが満たされるものではなく、それを超えたところにこそあるのだと。