2025.9.14 週報掲載の説教

2025.9.14 週報掲載の説教

<2025年8 月3日説教から>

真の王は子ろばに乗っておいでになる

ヨハネによる福音書12章12節〜12章19節

鈴木 美津子

 
主イエスは受難の週の初め、エルサレムへと入場された。過越祭を前に都エルサレムは巡礼者で溢れ帰っていた。群衆はなつめやしの枝を振りかざし、「ホサナ、イスラエルの王に」と熱狂的に主イエスを迎える。彼らは、病を癒し、死者をも復活させた主イエスの力に魅了され、ローマ帝国から解放し国を建て直す王としての姿を夢見ていたのだ。しかしその期待は、人間的な力と支配による勝利を求めるものに過ぎなかった。

主イエスがエルサレム入城に際し選ばれたのは軍馬ではなく「ろばの子」であった。ろばは権力や武力を象徴するものではなく、労苦と従順のしるしである。旧約ゼカリヤ書に「見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って」と預言されていた通り、主イエスは平和の王として来られた。人々の期待とは異なる謙遜な姿によって、神の国のあり方を示されたのである。

しかし弟子たちでさえ、その意味をすぐには理解できなかった。群衆もまた誤解し、やがて「十字架につけよ」と叫ぶようになるのだ。人々の熱狂は簡単に憎しみに変わり、王として迎えられたお方は十字架へと追いやられていく。けれどもその誤解や拒絶さえも、神は御計画の中に用いられる。十字架と復活によって、主イエスは人類の罪を贖い、真の救いを実現されるのである。

「ホサナ」とは本来「どうか救ってください」という祈りの言葉である。群衆は政治的解放を願って叫んだが、その叫びは結果的に、神の救いを宣言する言葉となった。人間の思いや言葉の限界を超えて、神は御業を進められるからである。私たちは自分の弱さや愚かさに気を取られがちであるが、真に支配しておられるのは神である。主イエスが「ろばの子」に乗られた謙遜な姿は、力や暴力ではなく愛と平和による王の姿を指し示している。今も世界では戦争や争いが絶えない。だからこそ私たちは、「ホサナ、主よ、どうか救ってください」と真の平和の実現を切に祈り願い、この平和の王を信じ従い歩み続けるのである。