2026.5.17 週報掲載の説教
<2026年3月1日の説教から>
『世に遣わされる者として』
ヨハネによる福音書17章6節〜19節
鈴木 美津子
主イエス・キリストは、十字架を前にして弟子たちのために祈り、彼らを「父から選び出され、子に託された者」として父の御前に差し出された。弟子たちは、これから起こる逮捕や十字架の出来事を十分に理解できておらず、恐れや迷いの中にあった。しかし主イエスは、その現実を知った上で、弟子たちを祈りの中に置かれた。ここに示されているのは、完成された者の集まりとしての教会ではなく、祈られて生きる者の共同体としての教会の姿である。
主イエスは弟子たちを「世から取り去る」ことを願わず、「悪い者から守る」ことを祈られた。教会は、世から離れて安全な場所に閉じこもる群れでも、世の価値観に流される群れでもない。世のただ中に置かれながら、神に守られて生きる群れである。その歩みを支える拠りどころは、人の決意や信仰の強さではなく、神の御言葉である。主イエスは「真理によって彼らを聖なる者としてください」と祈られ、聖別を、世を離れることではなく、世のただ中で神のものとして歩むこととして示された。悔い改めとは、感情の高まりではなく、御言葉に照らされて歩みの向きが整えられることである。
さらに主イエスは、父に遣わされたご自身のあり方に連なるかたちで弟子たちを世へ遣わされた。弟子たちが遣わされる根拠は、彼らの覚悟や熱心さにあるのではなく、主イエスご自身が先立って身をささげられた出来事にある。この「遣わし」は、重荷を一方的に背負わせる命令ではなく、主イエスの祈りと献身に支えられて歩む道への招きである。
民数記6章の祝福は、礼拝の終わりの区切りではなく、神の名を帯びて生活の場へと遣わされる者への派遣の祝福である。レント(受難節)の歩みの中で、私たちは主イエス・キリストの受難を思い起こすだけでなく、祈られて遣わされる者として、御言葉に支えられつつ世のただ中を歩むよう招かれているのである。
