2018.11.11~17 今週の集会

今 週 の 集 会
祈祷題「執事のため
神学校講義           12日()10:30             
聖書の学びと祈りの会      15日()10:00

  歴代誌6章(担当 三輪地塩)    司会 鈴木美津子

聖書の学びと祈りの会        15日()14:00
  使徒言行録1342節~52節      担当 安

2018.05.06の説教から

 
56日の礼拝説教から>
『昔の人の言い伝えに従って歩まず』
         マルコによる福音書71節~23
                             牧師 三輪地塩
 の箇所を読む上で二点の事が前提となる。まず「コルバン」とは神殿に献げる「穀物」の事を言う。もう一点は、当時のイスラエルには「両親の扶養義務」があったことである。この義務はモーセの律法にも出てくる。だがこの扶養義務からズルをして逃れたいと思う者たちも少なくなかったという。どのようなズルかと言うと、「これは神への捧げ物、コルバンとして捧げるので、親を扶養する事は出来ません。神様に捧げる為に、親には捧げられません」と言って扶養義務を逃れるのである。現代社会でもこのようなグレーゾーンを渡って法律の穴を逃れようとする「輩」が後を絶たないが、2000年前の人間も全く同じであった。
 このような背景によって、9節以下の言葉を考えると、よく理解出来る。十戒の第4戒に「あなたの父母を敬え」とあるが、ここから理解されるのは「両親の扶養義務」である。更に広い意味で捉えると、健常者や経済的裕福な者たちは、弱者に対する相互扶助や支援の責任・義務を負う、というのが当時のルールであった。だが、「神へのコルバン・神に捧げるから」という理由をつけて、神の名をみだりに唱えつつ、実際は、自分の懐に財産をしまい込んでいる人も少なくなかったのである。イエスが告発し、暴露しているのは、このような、ズルをした者たちが、「神の名をみだりに使っている事」であった。
 イエスは群衆を集め、15節で言う。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。これは、多少解釈が難しいが、律法の食物規定を考えても、神の作り給う被造物に汚れはないことと、汚れは「我々の心」が作り出すものだ、と述べている。すなわち汚れは「罪」の問題に由来する。「心」とは何か。それは、「人間の正しさによってではなく、神の正しさによって、正しく神に向かう思い」。それこそが、我々の言うところの「心」の正しいあり方だとイエスは言うのである

2018.11.04~10 今週の集会

今 週 の 集 会
祈祷題「こどもとおとなの合同礼拝・
こども祝福日を覚えて」1111
神学校講義            5日()10:30
北関東牧師会(栃木教会)     6日()11:00             
聖書の学びと祈りの会       8日()10:00

  歴代誌5章(担当 三輪地塩)  司会 鈴

聖書の学びと祈りの会        8日()14:00
  ヘブライ人への手紙11節~14  担当 岡

カレー準備           10日()10:00

2018.11.04 礼拝予定

主 日 礼 拝  午前 10:30
<聖 式>
 
奏楽 
 
                 <神の招き>
 
招 詞  詩編9115節~16
*讃 詠   545A
*罪の告白と赦し 交読詩編119137144
*讃美歌  56
 
<神の言葉>
聖 書 イザヤ書5814節~15(旧約P.1155
マルコによる福音書1120節~26
              (新約P.84                         
祈 り                                                                                                                                                                                              
*讃美歌 138
   「山も動く」       三 輪 地 塩
 
                                                       
<神への応答>
*讃美歌 534
*日本キリスト教会信仰の告白
 聖餐式  Ⅱ179
 公 告 
*献金感謝 424         クワイア
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  543
*派遣の言葉
*後奏 

2018.04.28の説教から

 
                 429日の礼拝説教から>                      
               『湖の上を歩く』
         マルコによる福音書645節~56節 
 
 湖の上を歩く姿を見た弟子たちは、「幽霊だ!」と叫び恐れた。
英訳聖書(RSV)では「Ghost」と訳している。
 ギリシャ語の原文では「幽霊・妖怪・亡霊」などを意味する
「ファンタスマ」という語が使われている。その他「現れ」「現象」
という意味も持つ。この箇所で、弟子たちが「ファンタスマ」だと
思って見たものは、彼らの心の中にある「妄想」「恐怖」の現れ、現象
である。弟子たちが怯えたのは、古代オリエント世界に広がる、伝説や
神話のようなものであったと思われる。
「レビヤタン」「ティアマト」などもその一つである。 
 ここで弟子たちが見た「ファンタスマ」は、人間の理解を超えた恐怖、
自分の想像を絶する何らかの力に対する恐怖を示してる。
同時に、その姿の正体が主イエスであったという事実は、我々信仰者に、
イエス・キリストこそが救いの神である、と言っているのである。
 この箇所は5000人のパンの出来事の後に記されている。これは明らか
に、出エジプト記の「マナの奇跡」を想起させる。大勢の空腹を満たす
のは、真の神以外にはおられないという信仰告白である。更に、
「荒れ狂う波の真ん中を進んで来るイエスの姿」は、出エジプト後に葦
の海を割ってその真ん中を通った「モーセの海割りの出来事」を想起さ
せようとしている。
 この時弟子たちに対するイエスの言葉は「安心しなさい。わたしだ。
恐れることはない」であったが、「わたしだ」と言うのは「エゴー・
エイミ」[]I am[]である。これは出エジプト3章で、モーセに
対して神が顕現された時の宣言の言葉「私はあってあるもの」「私はあ
る、わたしはあるという者だ」と類似する。つまり、弟子たちにご自分
を「エゴー・エイミ」と言い表した主イエスこそが、自然のすべてを収
め給う真の神。そして、世にうごめき、世にはびこる、すべての恐怖を
乗り越えさせ給う真の神」と宣言されているのである。その主イエスが、
yle="font-family:serif;">我々に「恐れることはない」と声を掛けている。
 

2018.10.28~11.03 今週の集会

今 週 の 集 会
祈祷題
日本軍『慰安婦』問題と取り組む会主催の集会のため」
聖書の学びと祈りの会       1日()10:30
  歴代誌4章(担当 三輪地塩)    司会 佐
「生と死」の学び(担当 森千恵)  同
(三浦綾子著「泉への招待」P.155~P164
聖書の学びと祈りの会        1日()14:00
  ヤコブの手紙2            担当 大月 美智子
日本軍『慰安婦』問題と取り組む会主催上映会(柏木教会)
  「沈黙~立ち上がる慰安婦」 3() 13301600